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合掌 ありがとうございます

 長期間間が空いたので、何から書かせて戴けば良いのか分からない位ですが、記録メモも兼ねて記入させて戴いておりますので、数点箇条書きのように記載させて戴きます。

 ニュースで選挙の候補者の紹介が流れていましたら、近所の政治家の方も映っていて、大変立派な内容を訴えられていて、涙が滲みました。
 事務所に奉仕に来られている方に道ですれちがって挨拶されなかったと文句を言われて色々気を使ったり、消化が気になって、ほうじ茶しか飲まなかったり、大変な毎日を過ごされながらも、自分一人の安楽な人生を送るためではなく、国民全員の命を護るために、厳しい人生を歩んで下さって、やっぱり個人の楽しみのみの人生より、自分に反対する人も含めた国民全員の安全のために一所懸命生きるという生き方は、立派に見えるものだなぁと思いました。

 本住吉神社で毎朝祈っていた後に近所に引き寄せられたので、やっぱり偶然ではなく、神様が実際にいらっしゃって導いて下さったとしか思えないなぁと思いました。
 谷口雅春先生によりますと、関東大震災後の引っ越しの際には、神様が霊的な糸でひっぱってくださって、郷里の神戸に帰って来られたという事ですので、引っ越しというものは、そういうもののようです。

 窓からは、あれは住吉さんの山とおぼしき山が見えているのですが、時々湯気みたいなものが立っているのを見かけた事がありますので、おそらく火山のようなものなのだと思いますが、てっぺんに岩がニョキと伸びていて、それが住吉大神様である生長の家大神様のサインのようなものに思えるのです。

 そんな飛び出たものがあるので、住吉さんに見えるというよりは、かつて、生長の家のみ教えに導かれた時に、『生命の實相』第七巻を読みまして、はしがきに龍野の人の事が紹介されてあり、親近感を覚えながら、「薬に頼るのをやめて、この本を読んだら治る」という事が書かれてあるので、「そうか、この本を読んだら病気が治るんだな、薬を止めたらいいんだな」と思って、もう治ったと思って、それきり治った事にして、健康なのだと信じて生きました。

 第七巻は生活編なので、病気直しの専門の説明をしている巻ではないので、はしがきに、おそらく第七巻以外の内容である「病気無しという事が書かれてあるこの本を読んだら治る」と書かれてあるので、ほぼ第七巻のはしがきの力にて、病気が治ってしまったのだろうと思います。
 それほどの文章力と申しますか、谷口雅春先生の言霊の力が本物で凄かったのだと思います。

 エピソードで、本が届いて机にしまっていただけで治ったとか、そういう記録もあるそうですので、自分だけに起こった奇跡ではないでしょうが、私が感じ取ったのは(感じ取る力も神授のものらしいですが)、本の微細な振動と申しますか、本の神聖そうなと申しますか、独特の生命に満ちた雰囲気で、

その訴えてくるような存在感をその山にも感じるので、勝手に、あれは住吉さんの山ではないかと感じているのですが、
この度は、この山も住吉さんの山のようだと感じている利尻富士にも、ニョキと飛び出た岩があるという事が分かりました。

 その名も、ロウソク岩と言うそうです。
積丹半島の神威岩の近くにもロウソク岩がございましたね。

 そんな風に、とても偶然とは思えないような不思議な一致がよくあるのです。
やっぱり生長の家大神様のサインのような気がしてなりません。確かめようが無いのですが。

 利尻島の航空写真は沢山インターネット上に存在しますが、紺碧の海に白妙の山容は、まさに”蓬莱島の如き”様相です。
見れば見るほど、神様感が響いてきて、いつもとても心癒されています。

 『続々甘露の法雨講義』でしたか、その中に、お聖経を読んでいると神様と一体になっているというような事が書かれてあり、
読むだけで良いのなら、これは誰もが幸せになれるので、どうしたら良いのかと心配せずによいような気がしました。

 例えば他国の誰かをやっつけなくても(?)そんな難しい事をしなくても、読むだけで、まずは自分が幸せになれ、すべての人が幸せになれるので、自己の行動の選択が、読むか読まないかだけのような気もします。

 ニュースで、米国のティラーソン氏のお写真が掲載されていますと、父にそっくりなので、ティラーソン氏が何人かは全く存じないのですが、古代に外国人が日本にやってきていたというのは、本当なのだろうなぁ(考えてみれば当たり前ですが。シルクロードで交易をしていたので)と思ってしまいます。
 映画で、日本人の事を「平たい顔」と言われているのを見て、その時はじめて日本人が平たい顔である事を知ったのですが、親が、目と目の間の鼻の谷になっている部分が手でつまめるほどくっきり出て居たので、まさか日本人が平たい顔であるとは、思った事が無かったのです。

 そして最近、ティラーソン氏が、目つきまであまりにも似ているので、「ここまで似ると、他人の空似では済まず、遺伝上の繋がりがあるとしか思えない」と思い、
先祖供養をすれば、遠い先祖は、現在のアメリカ人とも繋がって居るかも知れず、そうなれば、お聖経で先祖が悟りを開かれ、幸せになられて、子孫も何もせずとも幸せに幸運に恵まれて行き、難しい戦争が起こりにくくなくなるような気がしました。

 近所の生長の家の女の子も黒目の奥が緑色で、お母様もそうでした。ハーフなのかと、よく尋ねられるそうです。
私の母方は、まるでインド人のようでした。


 住吉大神様・生長の家大神様も、日本人だけの神様ではなくて、世界中のすべての人の親様にあたる命の根源者で、それに世界中の人が気が付けば、何も問題は無くなるように思いました。

 誰かからしたら悪の存在に思えていても、神様からしますと、それでもかわいい神の子なのでしょう。
神様はすべてのすべてですから。

 本住吉神社の御守りは、フクロウの形で、羊蹄山もフクロウに似ています。ニセコは外国人(?)がいっぱいです。


 今は、夕方に全国無縁流産児の皆様のために三部経をあげさせて戴いて、続いて先祖供養で三部経をあげさせて戴いて、二時間近くかかるのですが、
そう言えば私は、世界中の子供たち、特に親の無い子供達が、幸せになれるような事をしてあげたいというのが、子供の頃からの夢だったなぁと思い出しました。

 でも近年では、グループホームのように育てられるし、施設で預かっている子供達は、殆どが親が居て、でも虐待で会えず、居場所を知らせないために、お世話の人との文通も禁止傾向であるとの事と、国籍というものは結構難しい問題らしいという現実を知り、すっかり夢をあきらめていたのですが、
聖経供養でしたら、相手が、肉体が無い子供達ですから、人種の問題も関係なく出来て、気が付けば、小さいころからの夢が叶っていたと気が付きました。

 潜在意識の実現力というのは、凄いものがあると思いました。すでに叶っている夢なので、そんな将来の希望を描くのかも知れません(?)


 世界中の人が神の子であり、必ず幸福になれるように生まれていて、日本は神の島である事実をみんなで共有出来て、すべての人が安心して暮らせますように。

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2017.10.11 Wed l 住吉様の面影 l コメント (0) トラックバック (0) l top
合掌 ありがとうございます

 時々、利尻富士の夢を見ます。利尻島を歩いていたり、空中を飛んでいたり、泳いでいたり、どうしてなのかなと考えたのですが、お聖経の、「蓬莱島の如き理想郷」という箇所を読み上げる時に、利尻島の事を思い出すからかも知れません。
 あとは、「空中遊歩の神人とは」という箇所や、「海魚が水中を游泳するが如く」という箇所がございますので、それでそんな夢を見てしまうのかも知れません;

『生命の實相』第38巻に、「ありがたい情感を起こす事の大切さ」や、「まず神を愛しなければならぬ」という事が書かれてございましたので、「聖経 甘露の法雨」と読み上げる際に、ぐっとありがたいと思い起こしたり、続いて、「神」と表題を読み上げる時に、「すべてここで完全・完結」というような万感の思いを込めて強く読み上げます。

 お聖経の内容は、注意して読ませて戴きますと、「すべては神の愛の心のみ」、という事になるのではないかと今感じています。

『人間』の項に出て来る、「最初の夢」とは、それは、「不完全なものがあるという夢」「神以外のものがあるという夢」という事で、こんな妄想さえ思い描かなければ、実際は、「不完全は無い」「神のみ」というとてもシンプルな訴えであるように感じて来ました。

 読み始めた数十年前は、殆ど意味が分かって居ず、複雑な事が書かれてありそうだなと感じていたのですが、読み込んでいきますと、とても筋が通ったシンプルな内容で、絵で言えば一筆書きのような、音で言えば、一本のタクトを振るような音楽にも思えて来ました。

 これは歌であるという事も所々に書かれていて、「音の言葉の力にで最後の浄めなさん」という生長の家大神・住吉大神様の御働きそのものであるような気が致します。

 霊が納得して心癒され成仏するというような事を言われるのも納得してしまう内容に思い、これは、全国の無縁の水子さんたちを助けるかも知れないと感じました。

 谷口雅春先生のYoutubeを聴かせて戴いてましたら、人工流産児は、ひどく大人を憎んでいて、信号の赤と青を見間違わせる位、頭に念波を送る事でなんでもなく操作出来るので、それでベトナム戦争より多い交通事故が起きると仰られており、
 今の戦争は、ボタンを気分次第で押すか押さないかなので、霊が念波を送る位で、簡単に左右されるものなら、霊供養というのは、おろそかに出来ないものだと思いました。

 それよりも、無縁の水子さんの境遇が、大変に可哀想すぎる状態である事を最近になって知りました。
ものすごく弱く、弱い立場で、発言力はゼロで、無かった事にされ、居なかった者にされ、ひどい虐待だけ受けて、びどい場所に捨てられるのです。 弱い者が磔にあう事になるのです。
強い者が、弱い者に対して、辛くあたってはいけないものだなぁと思いました。強かったら、弱者をどうにでも出来てしまいます。
弱肉強食の世界は、神の愛の実現した世界ではなく、人間が肉体性から魂に比重を置いた存在になっていくにつれ、弱い者に強い態度でだけのぞむという事は無くなっていくのかもなと思いました。
 「弱い者には、どうしたっていい」、という発想は、おそろしい世界を実現しそうですし、それは日本的な発想ではないのだと思います。

 そのように、命を救う事は大切ですが、もうすでに肉体を失ってしまった水子さん達は、今の時代は、ほとんどケアがされにくくなっているのではという事が容易に想像出来ました。
 肉体は失っても、魂で生きているのですから、今、ミサイルで、地上生命がどうなるという時代にあっても、肉体をうしなった生命に向けて、お聖経の読誦は、とても大切な事であるような気がしました。
 肉体を失った生命も、一緒に生きているような気がします。


 子供の頃に、2,3回(?)ほど、とても怖い夢を見た事がありました。その夢を見る時は、ものすごい恐怖を感じていました。
もしかしたら、霊界にそういう場所があるのか?水子さんに関する場所です。お寺ではないのですが、お寺のお庭のような雰囲気の場所で、和風の玄関をカラカラと横に開けると、水場があって、足元の岩には、牛乳に出来る膜のような白い物で、赤ちゃんの手や足の型が沢山模様が描かれているのです。

 その形が非常にリアルで、子供が思い描けるような代物ではなく、実際にあるものを見てきたような感じなのです。
 どうしてそんな夢を見るのか?家には水子さんは居ない筈なのに、どうしてなのか分からなかったのですが、
今思いますに、あれは、個人の家の水子さんというよりは、無数の水子さんに関係するものであるような印象がありましたので、
日本の水子さんの事情のようなものを垣間見てきたのかも知れません?

 その夢は、忘れてしまっている普段でも私は、将来の希望として、お寺のような静かな場所で、お経を読むばかりの生活だったらいいなぁ、などと心ひそかに希望していました。
 でも、そんな夢は、実現するものでないと諦めていました。 人間は、社交的に生きるべきものなので、そんな隠遁生活は悪だという観念がありました。

 ところが今になり、聖観音の日にこの家に導かれて、流産児供養塔の慈母観音様の御写真の夢を見たり、窓から産婦人科が見えたりして、今の生活が、お聖経を読誦するという事になっていて、雅春先生のご講話で、人工流産児の大変気の毒な境涯を改めて知り、聖経供養の大切さを思い起こしました。

 救われるというのは、本当に真理によってである、お聖経には、その力があるという事を最近体験で知ったので、これを真心込めてさせて戴いたらいいかなぁと思いました。
「言葉の力で救います」というのが、お聖経に登場する天使も仰っている事なのですから。

 水子さんの霊が、自分は悲しい存在なのだと思うより、「自分は神の愛なのだ」、と知れたら、どんなに救われた心境になれるでしょうかと思いました。
谷口雅春先生のYoutubeを聞かせて戴いてましたら、知るだけ言うだけ想像するだけ思うだけで済むわけでない、心境が大事なのだなぁと分かるようになりました。 「ありがとうございます」と、言うだけが良いのではなく、「ありがとうございます」という心境にならないといけないという事で、心境が大事なのだと。
 実際は、肉体を失ってしまったけれども、心は真理を知れて、救われた心境になれれば、辛さは半減するかも知れません。

 そして、私も、宇宙の根源神からは、愛されているのだろうか? それとも、不必要な存在なのだろうか? と長い間悩んでいたのですが、その答えを知る鍵をお聖経に探してみますと、

「円満完全なる神より不幸は生ぜず」という箇所からも連想出来ますように、「愛なる神から”愛さない”は生せず」、「愛されない状態は生せず」、

「如何なる不幸も幻」 → つまり、「”愛されない”は、無い、幻想である」、實相は、書き換えられないので、いつも幸せなのが本当なので、常に感謝している状態であるはずだ、という事が分かりました。

その時はハッキリとは分からなくても、お聖経の内容から類推しますと、真実はそういう事になると思います。

そして、私を愛してくれているというのが神の想念なら、「私を愛す」という自己の想念が、神の愛と一致するのではと、そう想像しました。『生命の實相』にも、たしかそんなフレーズがあったような…。今は何巻か思い出せませんが。


 谷口雅春先生が、流産児を救う事で、日本の業が浄まり、実相が出ると仰っていた事も納得に思います。





2017.09.08 Fri l 日記 l コメント (0) トラックバック (0) l top
合掌 ありがとうございます

 長い間日記が書く事が出来ませんで申し訳ございませんでした。み教えについて何度も思いめぐらせていましたのと、このところもう一年にはなりますか、自分が生まれてからの人生を振り返って深く観察して点検し、反省しなおしておりました。

 数十年前に、知っていた内容と、今理解出来ている内容は、ずいぶんと差があるものですね、数十年前に、病気が治ったからといっても、真理を理解して治っていたのではなく、理解していないでも、真理の力で治っていて、み教えは分かっていない期間が、だいぶ長かったのだろうと思います。

 それでも、私は随分と物質無し・肉体無しを理解しようと、かなり執着的にこだわっていたのに、それが分かるまでが、かなりの長期間かかってしまって、その途中に、「やっと分かりかけた」と思っていた時でも、やっぱり分かっていなかったのだなと、今思えば、あの努力は何だったのかと、他の人は、どのようにされて理解をされているのだろうと思いました。

 今まで何度も、死にそうになり、そのたびに勉強して立ち上がって来ましたが、その苦しさは、きっと、前世になんらかの宗教にかかわっていて、「苦行は悟りの種ならず」と思えずに、潜在意識に、「苦しめば、悟りに近づける」といった思いが、残っていたせいだと今では思います。

 谷口雅春先生の聖典にも、前世のリーディングの内容が掲載されている内容がございますが、前世で、宗教に関わっていた人は、生まれ変わりでは、辛い人生になっているパターンが多いような印象を受けます。前世リーディングをされる方は、そもそもが、辛い人生の人しか前世リーディングを受けないからとも言われますが、

 古い時代の宗教は、やはり未完成と申しますか、まるで反対方向へ努力している場合が多いように思います。 それが潜在意識に残って、前世でなしとげられなかった修行を今世では、なんとか達成しようと動いてしまうものですから、生長の家にふれていながらも、真理が素直に理解できずに、どこかしら古い時代の宗教の生き方がまじってしまうのでしょうね。

 例えば、高校生の時でしたか、道とは何か?について考えて居て、ずいぶんと、深刻な顔つきをしていたと思います。
でも、今回、お聖経を克明に読解させて戴くにつけ、当時予想していた道の解釈とは、まったく違う解釈が理解され、

さすが光明思想と言われるだけあって、まったく明るい道の解釈に、改めて脱帽してしまいました。

 今世も、宗教関係で、辛辣な人生になってしまいましたが、それでも今世が一番恵まれていたと感謝しています。
それは、生長の家が出現した後の時代に生まれられたからです。

 谷口雅春先生のみ教えは、古い時代の宗教とは違って、やはり完成の燈台と呼ばれるにふさわしいものであったと、いまさらながらに感謝させて戴いております。


 私は、白龍の花火大会の日に生まれたのですが、生長の家に触れてから、普及誌愛行をさせて戴いている時でも、雨に当たらないのに気が付いて、それも、駅についてから土砂降りの雨になって、電車に乗り込もうとする瞬間だけ、また雨の勢いが治まるというのを体験してから、これはまるで、雨が絶妙にコントロールされているようだと、『實相を観ずる歌』にあるように、自分と天地とは、阿吽の呼吸のように一体となっているという事が感じ取れ始めたのです。
 その後、生長の家の神様は、龍宮の大神様でらっしゃるという事を知り、雨のコントロールなんて簡単だったのだと気が付きました。

 天地に満ち満ちている神様というのを感じ取れて、本当に生長の家は素晴らしいなぁといつも感動していました。
出会えた事に本当に感謝してもしきれない思いを新たにしました。

 なんと申しますか、今までが、何度も死にかけて、いつ倒れてもおかしくない期間が続いたものですから、ミサイルだけが原因で、人生を見つめなおした訳ではないのですが、

2,3年前に、ミサイルについての防衛力が、全く足りない日本である事を知り、早めに対処しておかないと大変だという事で、一所懸命拡散していた事を最近よく思い出します。

危険があきらかになってきた今では、テレビでも危険が放送されていますが、当時は、ほとんど相手にされませんで、無駄な努力に終わりました。

損だけしたような形で、あんなことするんんじゃなかったと後悔ばかりしていましたが、でもあの時、そうせずに、国の危機なんてしらんぷりして、お気楽に生きていたら、もしかしたら、今頃は、逆に後悔の念にさいなまれていたのではないか?と、そう思い到りました。

その時に、していたおかげで、今は、「精一杯の事はしたので、もう力も残っていない。全力を出し切った」と、逆にすがすがしいような気分です。

あまりいい結果は出なかったですし、損だけを受け取ったような、残念な気持ちですが、色々勉強して、何が起こっても、感謝するべきなのだなと知ったので、今回の残念賞にも、感謝しないといけないのだと思います。

 努力しても、成果どころか、悲惨な顛末になるという事で、生きて行く希望を持たないという事は良くないという事を以下の動画で谷口雅春先生がお教え下さっています。
https://www.youtube.com/watch?v=NHro9Vev4E4&t=4s
 童話集でも、『神様と龍宮のお話し』でしたか、そこにも、この世に絶望して、死にたいと思いながら生きていた人のお話しが書かれています。
 しかしそのような悲愴な想念で生きていると体にも良くないばかりか、死んでからも良くない、生きて行くのが神様の御心であるというのが、生長の家大神様のみ教えなのだそうです。

 ですから、現代では、ミサイルが来ても死んだらいいから、と思って生きるのには、疑問を持ってきました。
しかし、無力感がぬぐえず、周囲の状況からも、死について再び考えないといけなくなってしまっていました。

 清超先生ご編纂の続々甘露の法雨講義の聖典の489頁に、子供の癌は、今の憲法が原因、部分に主権ありという事で、国家の中枢に従わないという精神が、心の清らかな子供に作用するというような事が書かれてあり、
やっぱり帝国憲法的でないと、全体的にエネルギーの流れが逆様になるのだろうなぁと思いました。

 今の情勢では、どのように楽観的であればよいのかわかりませんでしたが、それでも心の持ちかたは大切なのだと思って、何も出来なくても、お聖経や聖典から離れないようにしています。

 そのせいかどうかは、分からないのですが、ここ数年は、異常気象が続いていたこのあたりでは、まるで昔に戻ったかのような気候になっています。
 谷口雅春先生は、気象は、龍のいたずら心でも変わるので、予測は出来ないというような事を書かれておられたと思います。
各地でお聖経を読誦する人が増えると、天候も穏やかになるかも? そうなったらいいですね。

 最近は、掲示板でも、お月様やウサギが活躍されているようですが、お月様にメッセージを送ろうという計画があるそうです。
https://payload.au-hakuto.jp/?cid=15100-49670
何人かに分けて、お聖経の内容を送れたらいいのにと思ってしまいます。

 冒頭の内容に戻りますが、死んだ時に、高級霊の前で、地上の人生の点検をされるという事で、その時になってやっと、自分のしてきた事は、どうだったのか?よかれと思ってやっていたけれど、迷惑を掛けただけだったのか、どうすればよかったのか?が、やっと分かるのでしたら、その時に、よくよく高級霊の方々にご指導して戴きたいと思います。 

 今は、反省しつくしましたが、やっぱりよく分からない部分が多いのです。

 もっと別の事を書かせて戴こうと思っていたのですが、長くなってしまい、ここまでにさせて戴きます。


2017.09.04 Mon l 日記 l コメント (0) トラックバック (0) l top
合掌 ありがとうございます

 偶然に家族が住吉祭の直前に大阪に行ける事になり、住吉大社にお参りして、おみくじを引いて来てくれました。
そうしたら、二人ともお月様に関する内容が出ました。

 住吉大神様は、航海の神様という事で、遣唐使が船出する際には、祈願に訪れていたそうですが、船出と言えば、月を待つという歌が思い浮かぶ如く、海の満ち引きに関する月は、住吉大社にとって大切な存在だったのではないかなと予想しました。

 住吉大神様は、和歌の神様という事からか、住吉大社の御神籤には、和歌が添えられています。その中に、お月さまに関するものが多いような気がします。全部を引いてみた訳ではないので、自分にあたった者だけに、月が関係しているのかも知れませんが…。インターネットで他の人の御神籤も調べましたら、二例ほどお月さまに関する和歌を発見出来ました。
住吉は、月の光もまるで神様みたいだというような歌など。

 家族の引いた御神籤は、私が以前引いたものと同じで、月光と共に住吉の神が天降って来るという歌でした。

 私に当たった御神籤は、「月を見て、私の心は今まで以上に高揚してくることだ」というもので、幸運の鍵は、満月となっていました。
「このみくじにあう人、心清くあれば何事も順調です」と説明がされていました。

偶然そばに置いていた『生命の實相』第十七巻を開いてみますと、そこにとても似たような内容が書かれてありました。

94頁です。著作権がどうなのか分かりませんので、直接ご覧下さい。少しだけ引用させて戴きますと…。

「實相は欠くる所なき円い月である。(中略)その實相の完全な相そのままをこの世に現わそうというのが「生長の家」の地上天国建設運動つまり人類光明化運動なのです。

すでに月はマン丸いのであります。(中略)ただ心を清めることによってのみ心の波の立ち騒ぐのを静かにしてしまうことによってのみ、水に顕れる月の姿――現象界が完全になるのであります。」

 同じ住吉大神様のご文章ですから、偶然引き合って、一致した内容が読めたのでしょうか? 凄い偶然だと思いました。



 そして、家族で小樽の住吉神社にて、お祓いを受ける事が出来ました。
住吉大神様の事を話そうとすると、住吉大神様への愛?のような気持があふれて、涙が出そうになって、しゃべれなくなります。
この頃は、そんな気持ちをおさえつけて、辛い記憶を忘れようとしていたのですが…。
社殿から出る時に、今までは、自己否定の観念に悩まされていたのですが、自己肯定感があるのが、自然な状態なのだとスッと納得出来て、お祓いを受けられて良かったなぁと思いました。
 神社は、正気に戻れる所かも知れません?


 この頃は、お聖経を一日に十巻読誦させて戴いてます。以前、そうしておられた方がお歳にてお亡くなりになったため、補充要員?にあたるのかも知れません(?)
 お聖経をリズムよく歌うように読誦させて戴いてますと、まるで光か何かの軽い塊がホワンホワンと寄って来るように感じて、光にて本来光である自分を洗うか、調律して下さっているように感じます。
肉体ではなく、本当は光の存在であるため、光でしか、清められないのかも知れないと思いました。

 お聖経を詳しく読解させて戴いてますと、光や、生命や、実在は、神と同じ意味であるというように書かれてありますので、神に置き換えて読み解いていきますと、なるほど、神(実在)とは、完全なものを言うので、不完全である罪というものは無いのだなという事がよく分かりました。

 今まで『生命の實相』の罪無しのところをいくら読んでも、罪無しが分からなかったのです。理屈ではわかるけど、どうにも実感が湧かずに困っていたのですが、
お聖経は、リズムによって、物質次元から、観音様の世界の次元にまで上昇出来るのか(?) ホワンホワンと軽い明るい気持ちになって、「ああ、本当に光一元の明るい世界だな、罪という暗いものがあるなんて、どこか異界の話しのように思える。罪なんて無いんだ」と実感出来てきました。

 これはやはり、お聖経の実力と申しますか、功徳と申しますか、本当に凄い力があるのだと思います。
お聖経は、国家をも救えるという事になっていますが、こんなふうに光が差し込んでくるような感じがしたり、光につつまれるような感じがしたり、いらない不完全なものが”消えていく”のでは、

物質的な方法では、右から左へ移動のような変化が主でしょうから、この”光によって消してしまう”という方法があるとしたら、本当に国家をも救えるのではないかと思えました。


 今日は、おついたちにも当たりましたので、近所の神社にも参拝させて戴きました。毎月おみくじを引く慣例になっていましたので、引いてみましたら、また満月の句でした。

 今年の住吉祭は、こちらに書かせて戴いた以外にも、今までずっと分からなかった事がわかったり、真理を学べて良い住吉祭となりました。

   +   +   +
追記

 毎年住吉祭には、政治上で良い事が起こりますが、今年は、防衛大臣に、期待されていた方が就任される事に内定されたようですね。
この方は、本住吉神社のお祭りの日がお誕生日でらっしゃるそうです。

2017.08.01 Tue l 日記 l コメント (0) トラックバック (0) l top
合掌 ありがとうございます

 虎の門ニュース7月7日号で、慰霊祭の時に撮られた航空写真に、英霊様の光の柱の輝きが映っているのを見る事が出来ました。

今はその動画は、削除されたのか?閲覧出来ないようになっていて残念ですが、一度でも見る事が出来て良かったです。

英霊様は、パイプオルガンのように並んだ複数の光の柱のように輝いておられて、その光が、ものすごい光で、ただただ圧倒されました。

あのように輝くのは、本当に魂の神性性からくるのだと思います。

誠の行いが、そのように輝かせるのだと思いました。


日韓合意から、英霊様に汚名が着せられたように無念の思いでおりましたが、どんな濡れ衣を着せられようとも、神性は汚す事が出来ないものだと、ちょっと安堵しました。


谷口雅春先生は、キリストは磔にかからず、神性は磔に架かれないというような説をとなえられていて、ずっとその事がわからずに居ましたが、
最近、何かの拍子に、「こういう事だったのか」と、ふと腑に落ちた事がありました。


今回も、英霊様は、神聖なるがゆえに、磔に架かれなかったのだと、そのように感じ入りました。


この頃は、なんともなニュースが日本を覆って、心が萎えそうでしたが、英霊様のものすごい輝きを目にして、深く心打たれました。

今は、ただただ甘露の法雨を読誦させて戴いてます。 ただただ、ひたすらに。


2017.07.21 Fri l 日記 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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