合掌 ありがとうございます

 お聖経を読誦し、天地一切に感謝できるように努力させて戴く日々を過ごしておりました。
最近ようやく天地一切に感謝できるようになりました。
その間、時々、以前にあった事を思い出して、どうしても感謝出来ないと、引き戻っておりましたが、感謝するより道は無いと思って、背水の陣で感謝するように心がけておりましたら、
やはり努力というものはするものなのか?努力のせいか、それともお聖経の功徳かわかりませんが、なんとか感謝にこぎつける事が出来るようになりました。

 一度でも感謝出来ますと、感謝の状態はこんな感じと分かるので、二度目からはその状態に近づける方法を選んで努力出来るので、まるで山道を登ってはころがりおちるの繰り返しのように感謝の努力を続けておりました。
 すっかり感謝が出来るようになっているのかは、まだ疑問です。今朝も朝起きた時に、「ああまだ自分は、すっかり感謝出来ていない、まだこらえているだけかもしれない」と感じながら目覚めました。

 神示には、「こらえているのでは和解出来ていない」というような事が書かれてあり、それは本当にそうだと思う今日この頃です。
祈りでも何でも、実現するのは、潜在意識なので、こらえていても、その内容が実現するので、こらえている事には、現象界では意味があっても、そういうものを持っているだけ損をしてしまいます。

 谷口雅春先生も、祈りというのはお願いする事でなしに、自分の想念の実現というような事を書かれていましたが、旧式の信仰では、祈りとは泣きつきのようなものであるような認識があり、それを中々克服出来ないでいました。
 しかしこのところ、なんでも潜在意識が実現して行っているのに気が付いて、こんなのほっとくのは危ないと思って、潜在意識の浄化をはかった訳です。

 潜在意識もそうですが、単なる思い込みも、ものすごくものを言うので、そんなものに振り回される人生になる位なら、聖典読誦を繰り返して、潜在意識を真理に置き換えておくに越したことないと思いました。
 今回、それが出来る機会に恵まれた事は、天の恵みと言うものなのかもしれないと、感謝しないといけません。

 色々今までの事をご説明させて戴きたい気がするのですが、現象一切なし過去も無しという事にして、ただ實相を観て感謝し続けますという事だけを記すほうがよいものでしょうか?
 何の説明も無ければ、何のことやらわからない日記になってしまいますが、以前あった事は、思い出したくもないほどの内容です。

 ほんの小さな断片だけお伝えしますと、例えばこのようなニュースで分かるように、
『会津の人々、長州に今も遺恨なぜ? 明治維新150年より「戊辰」』
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180207-00010004-nikkeisty-bus_all
憲法関係では歴史上の怨恨的感情にふりまわされるような事があり、まったく困ってしまっていました。
お国の為に尽くした故郷の偉人をけちょんけちょんに言われるのは辛い事ですが、人の感情としては許せないと思ってしまっても、それでは光明思想にはならないので、無限に許したり、感謝出来るようにならないとと奮闘しておりました。谷口雅春先生は、原爆にも感謝しなさい、原爆を落とした米兵の幸せも祈ってあげなさいという事でした。

 先祖代々の因果も、それは自分の意識の中にだけつかまれているので、潜在意識を浄化したさえ消えるという事を宇治で教えて戴いておりましたり、谷口雅春先生も、聖典を読むほどに、人類の潜在意識を浄化していっているという事ですので、それにはお聖経が良いに違いないと思って、お聖経の内容をよくよく理解出来るようにしながら読誦するようにしておりました。

 お聖経には、「最初の夢」これがすべての元凶なので、これを消せというような事が書かれてありますが、前後から推察するに、「最初の夢」とは、「不完全なものがあるという夢」であったり、「神以外のものがあるという夢」であるという事であるような気がします。

 普通に生きて居ましたら、通常では、この逆の発想で生きている事になりそうです。しかしそちらのほうが夢をみているような状況であるという事なのでしょう。
 例えば、罪でも、罪というものは、不完全なものだから、無いものなのだ、それは非存在で、神の光のほうだけが存在しているという発想でも、通常とは逆転の発想です。
 そういう風にして、一つ一つ錯覚を解いていきますうちに、許せない思いも溶けて行ったように思います。
 お聖経は、やはり凄いのではないでしょうか?


 最近では、肉体というものはある、という考えからも、遠ざかりつつあります。以前は、肉体という塊りがあるという考えから中々離れられませんでした。肉体というものは、本当に無いものなのだ、それは、心から吐き出す糸だと、お聖経に書かれてあるその通りだと感じます。良いか悪いか空中遊歩の神人というのも分かるような気がします。だから良い結果を得ているかというと、それは疑問ですが。今後気を付けて、實相をみつめれば、良い実がみのるものなのでしょう。

 今はまだ、何が善かが判然とせず、?????と思ってしまいます。 このままずっと分からないまま生きて行く事になるのかも知れないと半分諦めています。
 大熊先生が六根清浄の大祓を解説されていまして、それで初めて六根清浄の大祓の存在を知りましたが、六根清浄の大祓の内容は、本当にそうだと思う今日この頃です。
https://www.youtube.com/watch?v=OT6sl3hutCM
 それが分かっても、やっぱり自分は、何かこらえているものがあるような気がします。もっと心がけて實相を観て感謝する心にならないといけないと思いました。




 web上で見かけた過去世で会津藩士であった方は、今世では、オーラを見て相手の心に癒しの言葉をかけるお仕事をされていました。
 以前にも日記に書かせて戴きました通り、私の知人の整体の先生も、前々世位で、盗賊の頭領をして色々壊して回っていたけれど、今世では人々の体を治して回るお仕事につかれていたり、転生後は、以前とは、逆のお仕事に就く事が多そうな気がします。
 やはり生まれる前に決めてきたお仕事は、過去世の反動から勉強のためもあるし、やはり本人がこれをすると思うお仕事をするようになっているものである気がします。

 胎内記憶で有名な産科医の先生は、最近では、地球を救いたいという念願を持って生まれて来る子供が多いと動画で仰っておられました。
 使命以外の事をしても成果があがるのかどうか?
 私も霊的な人間ではいけないのか、肉体的でないといけないのか?と思って、霊的な自分であることを否定しましたが、自己否定すると、一気に体調を崩すのです。
 自己否定はいけないんじゃないのかなと思います。
 web上で読んだ情報によりますと、スピリチュアル的には、自己否定さすと、その子はトラブルメーカーになると言われているそうですが、それは、得意な事をせずに、苦手な事をさせる事になるので、必然的にそうなるのだろうなぁと思います。

 私も、いづのめの神の時代と思うなら、その時代の使命を果たしているほうが良かったような気がしています。
うつろな記憶ですが、いづのめの神の時代は、それまでの証明が出来るとか、そういう事もあったと思います。
ですから、こちらの日記で、谷口雅春先生の御教えは、やはり正しかったですよ、これが証拠ですというような、浅草寺関係の情報を掲載出来たりしたのではないかと思っています。

 谷口雅春先生の『母親と子供の本』に、物質的発展が目的でない、霊的な文明?が来る事を待ち望むというようなことが書かれてあり、私も霊性の進化という事を努力して生きて来ました。失敗ばかりしてきましたけれど、経験するというのは、失敗も経験の一つなので、仕方ないのかも知れません。いまふと思い出しましたが、『宇宙兄弟』に、失敗する回数を織り込み済みで計画を立てるというのがあり、とても感動した事です。

 宇治から送られてきました『宝蔵』に第三の文明をつくるというような事が書かれてあり、それは、谷口雅春先生の希望されていた霊的な進化の事なのかなぁ?と思いましたが、明確には分かりません。霊性の進化は、谷口雅春先生のお言葉を読むことによって可能なのではないのかなぁ?と思うので、『心のかけはし』誌の谷口雅春先生の原文を楽しみにして、十冊位知人に配ったりしていますが、それで良いという事も、自分ではハッキリとはわからないままです。

 自分では、やっぱりオリオン座の示す事が、けっこう当たっているような気がします。なぜなら、自分勝手に予想したものでなく、谷口雅春先生の神示集を読み解いて行って、そうした神示に忠実に沿って導かれるように出てきた結論だからです。

 例えば、古い掲示板で、数字の事を計算して、予測をしておりましたが、そのニ三点は、当たっていましたもの。勝手に計算したのではなく、神示で、357の数字で展開発展していくというような事が記されていますので、それをそのまま信じただけなのです。
 私が数字や計算に強いという事はなく、神示を本気で信じ込んでいたのです。それで、357で計算したら、当たって行ったのです。
 例えば、午年という事は、もしかして、憲法の事が表舞台に出て来るとか?と予想すれば、それまでは、憲法改正の事が表立って話題に出る事はなかったのが、その年をかわきりに、逆風に転じて行ったり、
その他の計算では、何か大きなものが壊れる年かも?だから原宿の建物が壊れるのは仕方ないかも?という時に、原宿の本部の建物が壊されたり、年数の計算上は、雅宜先生は、今の憲法にご縁があるお生まれになっている感じなので、本人のせいではなく、何か運命的な流れでそうなっているのでは?という事であったり、

 357の数字で計算すると、やはり生長の家の大神様の仰る通りになっている気がしてしまうのです。
今は、数字の計算などは、批判しか受けないので、もうすっかりやめてしまいました。
でも、落ち込んでいると、損なのだという事に気が付いて、神示では、天地一切に感謝しなさいと神様が仰っているので、その通りすべきだと、自分は今一人で、それよりほか生きて行く方法がないので、背水の陣で感謝だけの生活をして行こうと思っています。


 今日は、読み返す気力も無いので、推敲もせずにこのままアップさせて戴きます。
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2018.02.09 Fri l 日記 l コメント (0) トラックバック (0) l top
合掌 ありがとうございます

 今朝は23年前の震災の時間に合わせてお聖経読誦が出来ました。
23年前に起こった事は、以前にこちらの日記に書かせて戴きました。

阪神淡路大震災と法華経についての日記
http://tingokokka.blog.fc2.com/blog-entry-77.html

毎年掲載させて戴きますのは、谷口雅春先生が、小さな体験談でもとても大事である事や、発表する事の大切さをお書き下さっているからです。
現代では、発表の場がインターネット以外では見つける事が出来なくなってきました。

以前は掲示板に書かせて戴きましたが、何かその内容について言われているのか?本流の先生から、「子供が遊園地へ行ってきたと嘘つくのと一緒だ!」ときつく言われた事があり、せっかく得られた体験をどうしてそんな事仰るのか分からず、しょっちゅう嘘つき扱いされるので、居場所が無くなってきました。

しかしこれは、とても重要な内容だと思うのです。なぜなら、通常は、肉体から霊体が抜け出て幽界を見て回るというような記録が多いのですが、これは、肉体の中に空間がひろがっていたというものなので、まさに生長の家で説く、法華経の内容は真実という説明のようなものだと思うからです。

 お聖経には、すごい功徳があるという事になっていますが、震災の時の天使まで、お聖経を読みなさいなどと、まさに地上だけの存在ではなく、天界でもお聖経が重要視されているという事が分かると思うのです。


 昨日の日記では、とにかくやみくもにでも誰にでも感謝するようにして苦戦していると書かせて戴きましたが、今日も全国流産児の子供達のために三部経を読誦させて戴いてますと、

これはお聖経読誦の時によく感じるのですが、波動があがっている状態になっているような感じで、實相界の感じと申しますか、實相の放送により近くなっているような感じがして、
非実在のものであるものが、暗くかすんで闇のような非実在的な印象に受け止められるのですが、

 ほぼ毎日読ませて戴いてましたら、その周波数に慣れてきて、それで固定されて幸福感の周波数帯で生きられているような気がしておりまして、

 そして今日は、『父母への愛を求めて』の中で楠本加美野先生が、お見合いを断りに行かれる場面で、親の声は神の声だが、自分も神の子だから、こんなに違和感があるのはおかしいと、判断されている部分の判断基準が、なんだかわかったような気持になれました。

 通常なら親の声は神の声という事で、指示に従わねばならないところを、なんだか自分勝手な気分一つで判断しなおすというのは、一体何を判断基準にしたらいいのかわからないなぁと昔は思っていたのですが、

きっと楠本先生は、お聖経を読みなれておられたのでしょう。そして私も及ばずながらもお聖経を毎日読誦させて戴いているうちに、お聖経の内容とかけはなれた事や、慣れない周波数に、非真理性を感じて、「これは間違っている」と分かられたのではないかしらと思いました。

ヘヴィメタル音楽がBGMでしたら、何が何だか判断に迷ってしまっても、お聖経の調子に慣れて居たら、違和感で分かるという事かも知れないと思いました。

 そこでやっと私は、偽物とは和解出来ないという事がどういうことなのか、分かれたような気がしました。
偽物をこれが本物なのだと自分に受け入れて居たら、例えば、虐待する事が正しいと教えられたとして、はいそうですか、と納得していたら大変なように、お聖経の説く道から外れていたら、それを正しい道としてはいけなかったのではと思いました。

 ですから、實相荘厳懺悔のように、完全なすがたを直視するほうが、かえって不完全が消え、罪が消えるという事になるのは、それはまったくストレートな事実のような気がします。

思った通りになり、思った事が実現して、思いが形になるので、偽物と和解するとしたら、偽物の奥にある完全な實相を直視して和解というのでしたら、とても整合性の取れた和解となると思います。

例えば、「虐待が正しい」と教えらえて、「それは受け入れられないが、和解するために感謝しないといけない」と私が苦悶したのは、偽物は無、その奥にある實相のほうに和解してなさいという事が分からず、現象の姿に感謝しようとしていたからなのかなぁと思いました。
「虐待が正しい」と言われても、それを受けいれるのは、心が反発してしまって、どうしても飲み込めない事です。


 それが今回お聖経を読んでいますと、そんなとんでもない状況は、非実在的なかすみの向こうにあるように感じて来ました。
明るい光明の世界のほうが事実であり、そんなとんでもない事が例え現実に起こったとしても、それは非実在な影のようなものなので、それを現実としたり、それと迎合したりしてはいけないのだと分かりました。

 地上に悲惨が起こっているように見えていても、それは非実在で、本当にあるのは、光明ばかりの明るい生命の世界であると、これからは、そのように世界観を転換して生きて行けそうな気がします。






2018.01.17 Wed l 日記 l コメント (0) トラックバック (0) l top
合掌 ありがとうございます

 前回の日記の続きを書かせて戴きます。
今日は(1/12)、『新たに生まれること』という谷口雅春先生の御講話をお聴きする事が出来て、「やっぱりそうだったよね、そういう発想だったよね」と再確認出来て、とても元気になれました。
以前自分が「これが生長の家の教えだな」と思っていた事は、間違っていなかったのだと思いました。それが、ほかでは「それは間違っている」という事になってきて、自分は間違っているのかなぁと、ほかの人主張に自分の思いを譲っていたのですが、このご講話をお聴きして、自分は間違っていなかったのだなと分かり、ほっと安心出来ました。自分は間違っていたのかと自分を責め続けるのもつらいものでした。

 神の御心と保守活動では、やっぱり隔たりが出るのか? 宗教的救いの発想は、政界や常識では通じないので、やっぱり人類の進化は、ゆっくりとしか進まないという事になるのでしょうね? 最初は私も霊的進化よりほか本当に時代を良くするというのは難しいだろうから、とゆっくり構えていたのをミサイルの時代の危機感から、焦って恐怖心におちいってしまっていました。 一般の人は諦めモードなので自分も落ち込むし、でも、『栄える生活365章』には、地球には霊的な政府のようなものがあって人類を導いているというようなことが書かれてあり、人間の力関係だけで歴史が出来ているんじゃないのだと安心出来て良かったです。

 それに最近は、人間とは肉体では無い、肉体は無い、病は無い、という事がハッキリと分かってきて、分裂騒ぎにより、とてもつらい思いをして損をしたように一見は見えていても、そして現象的な得した事は無いかもしれないけれども、『久遠生命の神示』にあるとおり、現象的な善事よりも、霊的進化の賜物のほうを喜ばないといけないという事なので、「肉体無し、病気無し」が分かる事が出来たというのは、これは感謝しないといけない事だなぁと思いました。

 それに、以前は、「神の愛というものが存在しているらしいけれども、私には分かりそうにもない、いつか分かるようになりたいが、今まで努力しても、のれんに腕押ししているようだ、生長の家では、両親の愛が神の愛に一番近いというけれども、両親の愛に感謝出来て居ればそれでいいのかなぁ? ブレサリアンの方々は、神の愛を呼吸して人一倍幸せそうで、羨ましいものだ」と思いつつ過ごしていたのですが、
このところ神の愛が少し分かりかけてきて、それがものすごく有難かったです。

 ブレサリアンの方々が、神の愛を呼吸して幸せ感で生きているという事に似た内容が、『栄える生活365章』の124頁にも書かれてありました。
「神の愛を生活に呼吸する者は、神そのものの実現者となるのである」


 近年では、天照大御神様がどんな神様であるか、男か女かという事でにわかに注目があたっていましたが、
私に分かる事は、周波数的にとらえて、自宅にある伊勢神宮から戴いた神棚と、伊勢神宮の内宮の感じが同じものだった事がハッキリと分かったり、出雲大社と大神神社が同じ雰囲気なのに気が付き、後で御祭神が同じだったという事を知り、どうやら神様は雰囲気で分ける事が出来るのかも知れないと、それが私に分かる事でしたので、
宇治の幽斎殿では、「天照大御神・住吉大御神・鹽椎大御神」を十回お唱えする事になっていますから、お唱えさせて戴いている時に、天照大御神様の雰囲気周波数のようなものを思い出し、ああ空間にも充満しているのだ、ありがたいと、神の御恩に以前より感謝出来るようになりました。

 お聖経の冒頭の「すべてはこれ心」というその心とは、神の愛の心、それが宇宙に満つる実質という事になっておりますが、それも以前は、書かれてあっても虚しい理想のように、喧騒の前にうなだれてしまっていたのをふと周囲が静かになると虫の声でも聞こえるように、物質でない音が響いているのでも聞こえて来そうな気分になれました。


 ずっと前の事ですが、朝の先祖供養の時間を短縮するために、『七つの燈台者の点燈者の神示』(大調和の神示)をとばしていましたら、人と心の中で不調和になってもリセットするという習慣になりづらくなっていたので、これはいけないと気が付いて、それからは、毎日必ず『大調和の神示』を読むようにするようになりました。
 反感を感じても、どうにかこうにか感謝出来るように苦戦をするのです。今から思えば、もっと感謝しやすいところからすればよかったのに、例えば、お叱りを受けた時にでも、なんとか不平に思わずに感謝のほうへもっていかないといけないと、そう思うために毎朝『大調和の神示』を読んでいました。

 そんな毎日の習慣があったので、分裂騒ぎの中でも、「感謝しないと、大調和の神示が…」と、心の習慣になってしまっていて、毎日日にち、心の中で格闘していました。
 相手が言っている事が、どう考えても異変であるときに、どうやったら感謝出来るのだろう?と、夜中でもうなされてしまって、そこまでのことになるまでに、何かトラブルを避けるという行動をとるべきであったかなぁと、今になっては思います。「善意に解釈するべきだ」とか、「見捨てる事はいけないことだ」という気持ちに固執して、そのほかの真理からそれてしまっていたと思います。

 しかし事後の今となっては、そのトラブルにも感謝しないとという思考回路にはまりこんでいて、眠っている間も何度も目が醒めて「感謝しないと…」と思ってしまいます。
『大調和の神示』には、天地一切のものにと書かれてあるので、すべての人に感謝させて戴くようにしています。
他の人にお聞きしますと、感謝しなくていい事案というものもあるそうなのですが、その判別が難しく、自分には、それが分かるほどの頭脳はなさそうだと諦めて、なんとか感謝するようにしています。

 私はまだ悟って居ないので、そんなやみくもな事しか出来ませんが、感謝していたら、住吉に住んでいた頃の波動を思い出せました。きっと当時は、感謝しながら生きていたので、その心境まで高まるのでしょう。という事は、別段、どこに住んでいようと、感謝さえしていたら、神様と波長があっているという事になるのだと思います。
 土地は関係ない、心境の問題で、私は、ふいに極寒の地にやられて、あまりにも環境がからくて、感謝しようとしてもする事が出来そうにないほど、寒さがつきささり、すっかり感謝不足を容認してしまっていましたが、そんな事では、やっぱりいけなかったのでしょう。

 「實相界がある、日本は神の国である」という事が分かっていても、ただひたすら現象界の様子(掲示板や吹雪)に圧倒されて、ヘトヘトになり、まるで實相など無いかのようだと思えてなりませんでした。
 お正月に関西に帰った時に、雪もなく、温暖で、まるで春風が吹いているようで、実際にタンポポまで咲いているので、まるで遊園地をゴーカートで走って遊んでいるような感覚になり、「こんなに違うのか。まるで天国だな、ここで實相があると言われても楽だなぁ、まるで實相界のように楽しいおとぎの国のようだから。それを思えば、北朝鮮の人は可哀想すぎるな、一度も温暖な土地に住んだ事が無かったら」などと思ってしまいました。

 すべては自分の心の影なので、誰かのせいという事はないので、誰にも感謝していようと、なんとか苦戦して、それで少し感謝のコツがわかったのですが、強烈に感謝するのです。そうしますと、まるでネジを巻きなおす反動をつけられるように感謝の気持ちが続く事が分かりました。

 そうしますと今回、『栄える生活365章』の308頁に、實相完全の世界を信受せよと書かれてありました。
著作権がどうなのか分かりませんので、ここにコピーする事は出来ませんが、よく言われていますように、實相の完全さを見る時に闘争もありえないというような内容が書かれてあります。

 やはり過去に申し上げさせて戴きました通り、星空についての神示(『“心の法則”と“平和への道”の神示』)から導き出した推察から實相をおしはかりますと、今も闘争が緩和するのではないかなというような気持になってしまいます。
 分かったのは『“心の法則”と“平和への道”の神示』の日でしたので、そのようなタイミングで『“心の法則”と“平和への道”の神示』の事が分かると言うのは、人間力だけではありえないような気がします。

そうは思いますが、それが当たっているのかどうかは神様に判定して戴くしか、それが正解なのかどうかは分かりません。しかしそれが本当であったとしますと、教義通りの解決法が出来るように思ってしまいます。私は悟っておりませんので分かりません。

 今は、私の中では、お聖経の内容のほうが実在性をおびていますので、「すべてに感謝出来た時に神が顕れる」という事と、「神以外存在しないので、罪は無い、神ばかりだ」という事が、生長の家の真理であるように感じています。
 谷口雅春先生がお亡くなりになられる瞬間にも、「病無し迷い無し罪無しこれが生長の家の根本真理であります」というお言葉を二回も繰り返されて、生長の家の根本真理をお示し下さったはずだと思うのですが…。

 私も以前は、「どうしてそれが最後のお言葉であるのだろう?不思議だな、例えば、同じ内容を伝えたかったとしても、実相独在というような、實相という積極的実在のほうを、そのような光明面の言葉をお選びにならないかなぁ?」と感じていたのですが、
この事態を経験して、「罪は無い」という真理が無いと、とてもでないがやっていく事は出来ないのだと思ってしまいました。
「天皇国日本」「憲法復元」と知っていても、「罪は無い」という事が分からないと、罪人の人生しか歩めないような気がします。
それは、私個人の感想ですので、真理かどうかは分かりません。
「罪は無いという事を知らせる事が人類を救う唯一の正しい道だと思う」というような事を谷口雅春先生がお書きになられてましたが。すべて悪い事が起こるのは自己処罰からなのだそうです。
「罪は無い」と「和解する」とは同じという事ですので、私個人に限っては、すべてに感謝していこうと思いました。

2018.01.16 Tue l 日記 l コメント (0) トラックバック (0) l top
合掌 ありがとうございます

 今朝は朝焼けの光が古事記の街や後ろの積雪の連山をピンク色に静かに染めていました。
ミサワホームという会社が古事記をヒントにして建築の方針を決めているそうで、その会社が作った住宅街です。
写真を載せる事が出来ないので、例えば、ラピュタのモデルになったかもと言われているイタリアのオルヴィエートという街の小規模版に似ていますので、オルヴィエートを検索して戴きましたら似た光景がご覧戴けると思います。

ミサワホームは、うさちゃんをマスコットにまでしていますので、何か住吉の大神様の息吹のある会社なのかも知れません?
そういえば、住吉の大神様は、住み佳いの神様だという事でしたね。家とも関係がありましたね。

住吉大社のホームページを拝見させて戴いておりましたら、上空から見ると、住吉造りと呼ばれる社殿は、本を開いたように見えますという説明書きがありました。

生長の家の神示にも、生長の家大神様・住吉大神様と本との関係について書かれてあったり、住吉大社には、日本最古の図書館があったり、本住吉神社が、元という漢字ではなく、本という字が使われていたり、本当に生長の家は本とのかかわりが深いなぁと感じた次第です。

 しかし、いづのめの神の時代も、結構善い時代であると感じるのは、戦前では、白黒映像の記録が殆どであったのが、Youtubeのようなカラーで動画を目で視れるというこうした表現方法は、いづのめの神の時代の特徴であると思えるからです。

今では、一人一台手に持ってでも、その恩恵を受ける事が出来ていたり、辻井伸行さんなど、日本人ピアニストが、世界中を公演して、諸外国の方々に美しい音色を奏で、皆さんを喜ばせておられたり、それがまた、いつでもどこででも何度でも聴けるという時代となり、

昔だったら考えられない心の交流が出来て居たりするからです。


 それに、かつて英霊の皆様が戦って下さったお蔭で、ちょっと前のニュースですが、ロシアが北朝鮮の人権問題を気にしているというようなニュースを見分したり、黒人差別でけしからんとクレームの嵐になったり、本当に随分と時代が進んできたのだなぁ、昔だったら考えられなかったけれど、

英霊様の御徳というのは、莫大なものだったのだなぁ、ちょっとやそっとでは、崩れるものでなかったのだなぁと深く感動しました。

うっかりすると消えてしまう程の徳に感じていたのか?不安に陥っていた自分は間違っていたなぁと思いました。


 アメリカの不食者の方が、『栄える生活365章』を読まれたいけれども品切れだと仰るので、どんな内容であったか簡単にお伝えするだけでもと思って久しぶりに手に取りましたら、今の自分にピッタリの内容が書かれてあり、自分が救われました。

 経験によって、「こうなんじゃないかな」と思っていた内容でした。きっと昔読んだ時に記憶していたのか?それが感性となって残って居て、誰かが何か言っても、「なんだか変だな」と思えていたのかもしれません。やっぱり谷口雅春先生の教えからそれたらいけないと思いました。

 もう誰かに強く言われたからと言って、教えに反して、集団行動をとるために同調するというのは嫌だなぁと思ってしまいました。
そうなれば、個人主義のようになり、それもいけないと分かって居ながらもう仕方ないなぁと思えました。
今までは、個人の意見を抑えてでも集団の利益を優先しないといけないと思って無理しましたが、意見がまったく一致しない人々の間では、もう無理なのだと思いました。
自分には、判断がつかないので、今は孤独に一人で勉強するのでいいと思いました。

 20年前にやめたほうが正解だという事でしたので、そうだったのか、私は間違っていたのだなと思って、訂正するために宣伝していましたが、そうしているうちに、20年前にやめないほうが正解だったような気がしてならなくなってしまいました。20年前の事であって、今はどうなっているのかは存じないのですが、今やめたとしても、「20年前にやめたほうが正解だ」という考えの人々とは、とても考え方に隔たりがある事に気が付きました。

 それまでは、やめるやめないの騒動も、誰かのせいという枠組みで考えず、「自分の過去の悪業が現世に表出したので、自分が悪かった」と判断していたのが、「今の自分の窮状は、誰々のせいだ、何代目のせいだ、だから自分は悪くないと思っていい」という事になり、発想の転換のようなまるで逆様な発想になるので、「アレアレ?」と思考の算出法がまるで分らなくなってしまうきらいがあるのです。

 何でもない事で、罪人あつかいされたのも、前世で修道者であった場合、世間の善とは逆の価値判断で生きていたせいで、普通の暮らしで立派に生きている人の事を「結婚するなんてけしからん」とか罪人のように思っていたせいかもしれないと、そういう発想も出来る訳です。そして随分と道を間違えた自分であったのだな、今世では正しい宗教に出会えてよかったなと感謝出来ます。

 だからと言って、戻れる訳でもないし、何も出来ない自分より、ご活躍されておられる方のほうが立派だと思います。しかしとてもかけ離れているように感じて、呆然と立ちすくんでしまいます。

 生長の家の大神様は龍宮の大神様で、それには古来から亀に乗って行く事になっているのですよね。
亀の甲羅は、13で、13はアメリカインディアン?でしたかが、エイズなどの血の病気を治すのに13角の水晶を使う、なぜなら13は血をあらわす数字だからと言うのを聞き、
雅春先生は、血縁者に生長の家を引き継いでもらいたいと書き残しておられましたが、それが正解なのだと思ってしまいます。
そのほうが、結果的に良かったような気がしてしまうのです。

 色々現象的な証拠をつきつけて、「これが血縁者ではダメな証拠だ」と掲示板などで言われているのが、私には正論には感じられないので、それが正論だと感じる人々の間に入って行こうとしたので、無理が生じたのだろうと思います。

 こちらのブログをご覧下さっている方々は、どのようなお考えでいらっしゃる方々でらっしゃるのかは存じませんけれども、
私は、「血縁者のほうが結果的に見て、正解だった」とそう感じる自分でいいと、そういう自分でいいと思いました。
そうした時にやっと内心ホッと出来ました。たとえ間違いであってもいい、谷口雅春先生が、そうおっしゃられるならと思いました。

 谷口雅春先生が、もうすぐ日本は飛行機に乗せられてでも守られる時代が来ると古事記の本の中で預言されていましたので、
 出てご活躍される先生方のお立場も分かります。

 今は結局どこにも所属出来ていないのでただの一般人ですが、いままでずっと生長の家の子と思っていたので、そう思うようにすると楽な気持ちになれるのでそうしています。
 お金は裁判に使われるとある会に迷惑がかかると知り、「自分が会費を払う事で、誰かが苦しむのは、利己主義な生き方だから、そんな生き方はしてはいけないことだ」と思って、会費を払わない事にしたのですが、結局どちらからも困り者扱いになり、「利己主義な生き方の方が良かったかなぁ?」と思い返しています。


 今は、人界の言葉よりも、お聖経の内容に親しむ回数が増え、人の言葉と、お聖経の内容では、お聖経のほうがリアルに感じてきました。
 今までは、人との関わりが多かった分、そちらのほうが現実に感じていましたが、お聖経に関わる時間のほうが圧倒的に増えると、その感性が逆転して、
人類の習合意識では、「悪がある、罪人が居る、病が云々」という確信で動いているのが、信念がゆるい私を突き動かして、フラフラさせていたのが、
お聖経の内容である、「本当に実在しているのは、神の愛だけ、悪も罪も病も無い」という事のほうが真実だと、そういう信念にまでなって、そちらのほうが現実に思えるようになってきました。
そうしましたら、そちらの世界が、実現してきました。

 どの意識のほうを実在だと思うかにより、現実が変わって来たような気がします。
今までは、「悲劇が起こっている!破滅だ!」と掲示板で多くの人が嘆いていたら、「教えによると、そうではない」と頭脳で判断出来ても、人々の心の響きに共鳴してしまって、その振動に揺り動かされてしまっていました。

 しかし、生長の家の本当の講話では、オーバーに表現すれば、たとえ、酷い事が起こったように見えていても、たとえひどい親が、酷い事をしたように見えていても、その背後から放たれている光は神の愛があるので、酷い事が起こったようにでも見えるというそういう発想であったなぁという記憶があり、
それこそ本当の講話だと感じるのと、お聖経の内容もそうなっているので、真理の方を信じるようにしましたら、救われてきました。

 これからは、人の言葉よりも、真理のほうを信じて生きて行こうと思っています。


 今日は、別の事について書かせて戴こうと思っていたのですが、本題に入る前に長くなってしまい、ここまでの記載にさせて戴きます。
続きは別の日に書かせて戴きます。


2018.01.11 Thu l 日本と生長の家 l コメント (0) トラックバック (0) l top
合掌 ありがとうございます

 あけましておめでとうございます。
年の区切りとして、また今後は、どの方向に進むのが正しいのかを考えないといけないですから、今まであった様々な事を一つ一つ検証して、何がどうなったのかを追って行きました。今まで時間を掛けてそうしていても、何が誰が言っている事が正しいのか全く分からないほど一人一人の意見は違いました。そして、私が体験してきた事は、他の人には、架空の物語のように感ぜられるのです。事実は小説より奇なりという事で、想像よりも現実は厳しいという事なのだろうと思います。

 仕方ないので、たった一人自分の中でだけ検証する事にしました。高名な先生にご判断を仰いでも、一人一人全く違い、思わぬ事を言われたり、随分とショックな展開になったりするので、まさか現実はこんなだなんてと、思ってもみなかった展開です。
 このブログをご覧の皆様は、どのような現実を生きておられるのでしょうか?

 私は、ほぼ元生長の家関係の方々とは、連絡も取りづらくなってしまいました。同じ宗教を信奉していても、こんなに違う?とは思ってもみなかった事です。
 そして、今までは、みんなに合わせるのが善だとして、自分の意見をひっこめて、仲良くしていましたが、他の人々が、ほとんど個人主義が正しいとしているので、合わせる事も出来なくなって、「あれ?あれ?」と今まで信じていた善とは何だったのだろう?と、正しい規律と申しますか生き方にも迷う程になってしまいました。

 別に我を主張して仲良く出来ないのではなく、あまりにも潜在意識の部分が違うからなのか?空転して分かり合えなくて、泣いて帰らないといけなくなるのです。 本当にどうしてそんな事になるのか、故郷と遠く離れた土地では文化が違うからか? これはもうついていくのは不可能だと判断して、古事記もやめてしまったのです。

 今まで一所懸命周りに合わせようとして、相手の言い分を受け入れて従ったり、無理してでも同じような生き方をしてきましたが、うまくいかないので、人の言葉を信じるのは、間違いなのかも知れないと思いました。 雅春先生の教えと違う事を言われて、「どうして現代では、雅春先生が禁止している事が正しいとされるのか?」と不審に思いながら従うと、やっぱり人の言葉より、真理のほうが正しく、大変な痛手を負うように思います。

 自分に、「それは雅春先生の教えと違うから」と言って拒否する強さが無かったのがいけなかったような気がしました。
私の中にある谷口雅春先生の教えでは、キリストの目に関する教え、それから、宗教者の冷酷なふるまいに関してや、女性の生き方や、正しい方が謝罪するとか、そういう面が自分の心の中で大事な部分を占めていました。

 でも、信仰者でない愛国者の人々と行動を共にしようとしますと、物質的な判断と振る舞いの周波数域になるようで、本当に大事にしないといけないのは、真理のような気がすると思ってしまうのです。真理にしか救う力はないのではないかと。お金を積めば、病気が治るなら良いかも知れないですが、病気を治すのは、お金ではなく、心次第であったりします。病院も無ければならないけれども、この世から真理が消えたら、また生長の家出現の前の時代に戻るという事になりませんでしょうか?

 真理が消えて、どうやって国が救えるのかなぁ、個人救済と言えども、例えば、一般人であっても宗教者であっても、冷酷なふるまいをすると、どうなるか、それを教えてあげられるのが宗教的真理ではないのかなぁ、間違った行為を重ねて国は救えるものかなぁと、宗教者は、宗教的真理による救済をやめてはならないような気がしました。

 宗教的真理の救済は、案外おろそかにされているような感じも受けるのですが、どうでしょうか。私が20年前にやめる・やめないで騒動になり、後から「やめたほうが正解」と言われて、一時は、「間違いだったかも知れない」と思った後に、「やっぱりやめないほうが正解だったのでは?」と思い直したのは、真理による宗教的救いは、捨ててはならないという感じがあったからなのでした。

 宗教的に救うよりも、宗教臭を抜いてでも、物質的に救うべきだという発想に、良心が痛むところがあったのでした。

 きっと今でも、そういう救いも必要だと思われて活躍されておられる方も多いと思います。社会的に活躍するには、その方法が適しているのだと思います。

 でも本当に向かわねばならない先は、物質を超えないといけないという事なのだ、それこそが、本来の目的なのだ、ひろびろとした実相の本地と申しますか、本道を歩む事が、(例えば自分を物質人間と思わずに、神の子霊的実在と知るという事などが、)本当の人の幸福なのだと心がそう思うので、それを捨てて、物質的にだけ救済するというのには、ちょっと抵抗があったのでした。

 しかし一般的には、宗教に振り向くという事は、おおごとで、多くの人は、そんな道は選ばないようで、常識の世界に生きるもののようです。
 そして一生、宗教には振り向かず、天寿を全うされる方も多かったり、でも立派な人生であったりするのでしょう。

 でも私の中では、幾たびも転生を重ねてきたとして、今世になり、生長の家に出会えたという事は、なんという喜びか、救済か知れません。
 それこそ、生長の家の衣の房でもいい、一端にふれるだけでも、どんなに幸いな事か知れません。それ位偉大な宗教と思っています。
 数ある宗教の一つでなく、本当に最終の救いのような気がします。これ以上の宗教は、地球上には、以後は出現出来ないのではないかと思う位です。

 現代では、Youtubeなどで、谷口雅春先生の説法が聴ける時代ですから、それでいいのでしょうか? その点がインフラ的に昔とだいぶ違ってますね。 仲介者を介さず、直接聴けるのです。
 拝聴していますと、以前私が「事の真相はこれでは」と申し上げていた内容が正しかったような気がするのですが、そんな事はないでしょうか? 谷口雅春先生の教義に沿って、ちゃんとつじつまがあっているような気がするのですが。

 今多くの人が言っているのは、後継者が突発的に異変を起こしたというものです。それで「悪人だ、悪人だ」と、それ以外の一般の信徒の事まで悪人だとされて、人の本性を悪のように想定したり、それも人一倍お人よしの人々に対して悪人だと言って内紛のようになって、今まで習った事は一体なんだったのかなぁと虚しい気持ちになってしまいます。

 しかし、今回の事は、想定外の事ではなく、雅春先生の予言の通りになったに過ぎないという事ですと、人の悪が原因でという事にはならないのではと思うのです。
 何でも真理の瞳でみつめ続けるという事が、必要な事ではないかなぁと。

 私の事も、とにかくひどい人間で、グチャグチャで無茶苦茶で、嘘つきで、とんでもなく悪い?人間だと言われています。
「………。」
もう本流に行かなければ良かった、あのまま本住吉神社で、清掃奉仕だけして人生を全う出来て居たら、本人は幸せだったのにと思います。
でもあの頃、本棚から聖典が落ちて、いづのめの神の事が載っている神示のページが開く事がニ三度続いたりして、何か神様が、その神示の事を知らせているような気持になって、よくよく注意してみると、今は、いづのめの神の時代なんじゃないかなと、そう思うようになって、皆さんが争っている所へ、お知らせに行ったのでした。

 争う必要はなく、今はそんな時代にさしかかっているだけなのではと。もう一つ、谷口雅春先生が古事記の本に、こういう時代が来る事になっていると予言されていた事を。

 そしたら、現象を実在として取り扱う事が流行っているのか? 神示よりも現象の悪を実在としてとりあつかわれる風潮で、寄せ付けて貰えなかったです。

 でも今になって思うに、本棚から聖典が落ちて、神示のページが開いて、いづのめの神の時代かもしれないと思ったのを自分はあのままそれを信じて生きていれば良かったとつくづく思っています。
 自分の感性をしりぞけて、他の多くの人の言い分に従って、やはり多くの人の意見は、どうしても人間の言葉であり、神様の言葉にはかなわないような気がします。


 環境問題や無農薬農法がいけないというのも、それが悪なのではなく、単にいづのめの神の時代なので仕方がないような気がします。

 住吉大社のホームページにも、住吉大神様は、浄化の神様で、農業振興の神様で、和歌や俳句の神様で、という事が堂々と書かれてあって、農業をしているから住吉大神様の教えではないという事にはならないと思います。

 無農薬農法では、観音様がご本尊のいづのめ教団というような宗教ががんばっておられるようですが、住吉大神様は、仏教にあらわれては、観音様となりと雅春先生も教えておられますので、別に無農薬農法が悪いわけではないと思う訳です。

 農薬を絶対悪とは思いませんけれども、農薬を使っている作物とそうでない作物は、たしかに味が違い、いまどきの子供は、本当の味を全く知らないまま育つのが、本当に可哀想に思えてしまいます。果物でも全く味が変わってしまっています。ちょっと昔は、それでも味が似通っていましたが、ここニ三年で、急に味がかけ離れて来ました。
 本物の滋味のようなものを知らないと、感性的に人間はまともに育つものかなぁとちょっと心配だったりします。
 味や舌なんて、宗教とは何の関係も無いと思っておられる方が多いかも知れないですが、法華経には、法華経に沿うと歯が綺麗になるとか、どの状態が正常な状態か書かれていて、味覚が狂うのは、やはり天皇国日本の實相がそれだけくらまされているので、その影でそうなるのではないかなとそう感じています。

 本当の法華経は、生長の家の教え谷口雅春先生の教えだと信ずるので、作物を正常な味覚の範囲に収めるというのは、結構良い事だと思ってしまいます。

 しかしこういう弁護は掲示板に書く事はもう出来ません。左翼だと断定されて終わりです。ただ神様の道を判断したい、歩みたいだけなのに。


 多くの人は、「谷口雅春先生の教えを変えた」と言われますけれども、谷口雅春先生は、こんな時代が来ると古事記の本にお書きになっておられたと、それでしたら想定内の事象になるのではと思ってしまいます。
 もしそれが本当でしたら、どの宗教界で発表しても、引けを取らない立派な内容と史実だと思います。
自分以外の誰もそう思ってもらえないのですが、自分の中では、それが真相ではないのかなと感じています。
一応インターネットを通して公開し、自分だけのものにしなかったので、利己主義ではなかったとして戴けるでしょうか。
自分だけで満足していたら、つらい思いはせずに、安全圏に居れたのでしょうが、それだと利己主義となり、誰も助けない人となり、それでは聖使命菩薩とは言えないので、無理してインターネットの掲示板に書きましたが、ひんしゅくを買ってしまいまいした。

 それで自分は要らない人間なのだと思うようになりました。谷口雅春先生も、愛する対象を失った時に免疫力が落ちるような事をYoutubeでお話しされていましたが、総本山に対する思いも間違っているとされたり、そういう夢をみたり、こちらが勝手に愛情を傾けているだけでしたが生長の家の関係の人から異質な物とされたり、こちらからは愛していたばかりに落胆してしまっていましたが、

谷口雅春先生の聖典の中で、6人の子供をインディアンに虐殺されても神に感謝する姿勢をとらねばならないという霊界通信の一部分があり、そこを読んでから諦めがついたような、許せなかったものにもどうにか許せるようにならねばならないとさらに努力するような、そこを読む事がターニングポイントになった気がします。
 神様に感謝するというのは、6人の子供を殺されてもしないといけないものなのだなぁと、なかば呆然としてしまいましたが、そういうものなのでそれが出来るようにならないといけないと思いました。
 6人の子供が殺される事が善であるほど、この宇宙は完璧に神の愛の摂理が行き届いているものなのだなぁと。

 それは時々感づいていました。現象界だ物質界だと言って、この世界はいいかげんなものだとする姿勢もありそうですが、この世界は観音妙智力の世界であり、相手は観音様であると、時々それが真実だと感じていました。
物質界ならランダムに現象が起こりそうですが、ランダムに起こるのではなく、相手がまるで観音様のように現れるので、この世界は物質界ではなく、霊界的なのではないかと感じていました。
 生長の家のお話しによくある、自分の心だけのものをひきつけるので、別にどこに逃げても一緒だと。
 どうしてその講話をせずに、別の場所へ逃げれば安全だという風潮になったのか、それがどうしてなのか不明なままです。

 そんなことですから、今回の騒動も、物質的にお金に目がくらんで引き起こされたような混乱ではなく、霊界的な意味深い事象であるのではないかと思うのです。


 その事は置いておいても、私が本流へ行ってどんなに努力してもついていけない理由がある事に気が付きました。
 本流の人は標準のレベルが高くて、私にはついていく事が不可能でした。かといって左翼にはなれないのですが。

高いレベルをクリアしていないと、どうしてもそこに居れないようです。それは自分のレベルが低いせいなので仕方ないですね。
辞めたとはいえ、結局本流にも行けません。

 私は長年の間、人間力ではどうにも助けられないほど困窮している人を助けられるようになりたいというのが念願で、それが出来るようになるために努力してきました。
それが出来るのは、生長の家の真理以外にないと思われるのに、その真理が理解出来ないで苦しい思いを続けて来ました。
いくつか解決の事例はあっても、それでも難しい内容で、生長の家の講師の先生でも難題としているもので、でも相当な苦しい問題なので、どうにか解決の糸口がわかれば、多くの人が救われるのにと思って、理解出来るようになりたいと思っていました。

 思えば、そういう方向性は、政治の世界とは逆ですね。政治はエリートの世界で、ある程度恵まれていないと相手にされないでしょう。
 私がどうにかしたかったのは、政治力ではどうしても救えない問題を抱えた人たちの事だったのですから。

 憲法で解決といえども、憲法は大事であるけれども、真理が理解出来ないと憲法も人心も救われないような気がします。国が亡くなったらどうしようもないといえども、人心が荒れてはもう死んだ方がましな位苦しんでいるので国どころか死ぬことばかり考えて居る人々となってしまうような気がします。

 憲法の問題では、帝国憲法派の私はお邪魔虫なのと、神社庁まで退位を良いものとしているので、ときみつる會様が頑張って下さっていても届かないなら私の手はなおさら届かないと思ってあきらめて、政治力ではどうしても助けられないほどの窮地に立たされている人を助けたいという元の念願に戻る事にしました。

 苦して苦しくて死ぬほかないと考えて居るような方々の事です。そんな人が現実に居るという事は、幸せな人には分からないのではないでしょうか?
 それほど格差のような本流の人々の幸福度との差があるので、相手はこちらの事情がわからないし、話しがかみあわないようです。

幸い?色々な経験をして、維摩経にある肉体とは魔術師のあらわす幻のようなものというのは本当の事だと思い知るようになり、これからは辛くて辛くて仕方がない人々を助けてあげられるようになったと喜んでいます。
 助けるというのは傲慢な思いですから、そんな風に思ってはいけないのでしょうが、ほかに表現のしようがないのでそのように表現しています。



 こんな時代を迎える以外に仕方なかったのでしょうが、総本山が出来た時に、『如意自在の生活365章』などに書かれてある事は本当の事だとして、もっと喜び、てこでもそこから動かず、この聖典の内容は真実だと、総本山に関する谷口雅春先生のお言葉は真実だと、もっと宣伝出来なかったろうかなぁとぼんやり思います。

 日本に関する真理は時の流れとともに出るので、時間の経過が必要で、「今になってから分かる」という事で仕方がないのでしょうが、
総本山が出来たはいいが、日本はまだまだ問題が山積だとして、そうそうに総本山から離れて行ったのは、けっこうもったいない行為だったのではないかなぁと思えます。それは人様の行為について思う事になるので、自分にそんな資格は無いのですが、シュミレーション上の事ではそう思ったりしてしまいます。

 当時にもっと喜んでいたなら、その後すぐ谷口雅春先生がお亡くなりになり、それで教団を離れられたという方は掲示板から察する限り、いくらかおられるようですが、総本山は、その実ものすごい価値のあるものだったと思ってしまいます。
 今ではもう総本山の事は諦めている方が多そうですけれども、神様から見たら真相はわからないですね。今後どうなるかというのも神様にしかわからないですね。
 ただオリオン座の総本山の星の近くには、赤い背景の黒い逆向きの馬頭星雲がかかっているのです。


 私もどうしていいか分からず、仕方ないので浅草寺と住吉大社から発行されている機関紙を購読しています。
少しでも住吉大神様と観音様の情報を得たいと思いました。
 お正月は、本住吉神社に初詣にお参りさせて戴けましたが、神気がすごくて、昔通っていた頃の幸福を思い出しました。一気に浄化されたような気がして、自分は随分と落ち込んでいたのだなと分かりました。今年は、どうにか自分を取り戻したいです。

 年末の事ですが、全国無縁流産児の方々にお聖経を読誦させて戴いている時に、大熊先生の事が気になり、お電話でお問い合わせさせて戴きましたら、大熊先生が資金不足で困っておられるという事がわかりました。お聖経をアンテナになんとか神界経由で連絡をとり、實相から離れる事がないように、迷う事が無いようにしたいです。


 随分と長文をあまり推敲もせずに、ただ書いただけになりました。人がどう思うかというのも全く予測できないほど、人々の意見は様々なので、自分はこんな具合である事をそのまま書きました。






2018.01.06 Sat l 日記 l コメント (0) トラックバック (0) l top