合掌 ありがとうございます

 だいぶ日が経ったので、また多くの事を忘れていて、所々しか思い出せないのですが、少し憶えている部分だけを書き記させて戴きます。

 前回は、いじめについて書かせて戴いたという事は憶えて居るのですが、その後、いじめっ子にも感謝をしないといけないことに気が付けました。
舞台設定・シチュエーションを提供してくれたという事にです。

大学の時も、一人きり孤独そうにしているクラスメイトに生命の實相を届けたりしていました。ほっといて、自殺してしまうのではないかと勝手に心配したからです。しかし実際には、それほどの窮地である事はなくて、単なる伝道のきっかけとなっただけでした。

私は生長の家の御教えは、本物中の本物であり、これに少しでもふれておくだけで、将来的に救われると確信していたので、生長の家の行事がある度にクラスメイトを誘っていて、ほとんど毎回誰かに参加してもらっていました。

遠い将来に、「そういえば、昔、生長の家という所に連れて行ってもらった事があったなぁ」と、人生の岐路に立った時に思い出してもらえればと思ったのです。

私も、聖典のたった一行を伝え聞いただけで、救われたのですから、人は、本物に出会うという事が、ものすごく貴重な大事な事だと感じていたのです。

そういう風に、私は伝道に力を入れていました。それほど谷口雅春先生の御文章の本物さは、ものすごいものがあったと思うのです。

今回の騒動の時も、毎月配る事になっていた普及誌に適切なのは、どれだろう?という悩み(?)が自分の中にあって、伝道にどれを選ぶのが適切だろうか?と、そこが判断の基準で、毎月毎月がすぐに過ぎ去るので、選ぶのを焦っていた記憶があります。

 それなのに、いまだにどれがいいのか判然としないで悩んでいるのです。あれ?あれ?どうだったかなぁ?と分からなくなってしまうのです。

伝道が出来ない…これは困ったという事で、未来永劫、伝道するのに困らないようにと、黙示録の預言の実現の可能性を訴えていたのでしたが、聞き入れてもらえず、あれ?どうしてだろう? 書かれてあるのに…とまた分からなくなってしまって、今では、悲しい記憶になるので、忘れようとしていて、思い出しにくくなってしまっています。


 しかし現在の日本の現状は、だいぶ危機なのに、どうする事も出来なくて、真理に沿って憲法を選ぶことも悪い事にされて、ちょっとこのままでは、将来どうなるだろう?と、心配してもしかたないのに考えてしまいました。

 誰かの考えに頼らず、自分でリサーチしたところによりますと、今まであった事、つまり歴史と、黙示録の預言は、一致している部分があるという事が、自分では分かっているので、
それの延長線上をたどるとすると、やがてハッピーエンドになるだろう、と昨日は、日本の将来を憂える事から久しぶりに黙示録を思い出して、ちょっとホッと出来ました。

 しかし分からないのが、生長の家を導く御方が、七つの燈台の点燈者と呼ばれる御方であり、その御方は、今後どうなるのかを書き記せと仰っておられる御方であるのに、そしてそれが実際に起こってきているのに、どうしてそれを否定するのかなという所が分からないのです。

どうして生長の家の主である七つの燈台の点燈者の御方の仰る事を真に受けない…とかあるのか、あれ??と、よくわからなくなってしまいます。


 今もよく分からないので、中途半端な書き方ですみません。


 私に出来る事と言ったら、全国無縁流産児のみなさんにお聖経をあげさせて戴く事ですから、続々甘露の法雨は、水子さんたちには、関係ないような内容かなぁと思いつつ、それでも三部経を全部あげたほうが、よいような気がすると思って、続々甘露の法雨のところも読ませて戴いてましたら、最後の方に病気直しの内容ではなく、それらの心の法則とは無縁の超越した元から神の存在であるという事が書かれてある部分が、ここなら水子さんにも適している内容に思えて、

それまで親に水子さんがいる家族に起こる霊障を聴いた事があるけど、水子さんが、今後、うらみの人生を送るか、それとも、お聖経にふれて、自分は神なので、うらむなんてことするわけないと思って、自己の神性を悟るか、どちらがいいかと思えば、

うらんでいてもせんなし、これを機会として、自己の神性を悟り、一大霊的進化・飛躍をするほうが、どんなに本人にとってもよいかわからない、
自己の神性とは、神様は、限りなき大愛だという事なので、無限に許す力も全部自分の中に神性として持っているので、恨む道を選ぶのではなく、自分が限りなき大愛であり、これを機縁として、逆に幸せになる、そういう道をみんなで選ぼうと、同種療法のように話しかけました。


同じ悲しみを持っている人に癒す力があるとかそういう事も生命の實相に書かれていたと思います。
神様は、よい巡り逢いを与えて下さったのだと思います。


 それから、目には不思議な力がある事に気が付きました。本来でしたら、生長の家の御教えは、この目の力を教えるのが本来だったような記憶があるのですが? ずっとそう思ってきたのですが、どうなっているのか分かりません。

でも、教えから判断致しますと、黙示録のハッピーエンドに狙いを定めて、そこを見つめつづける事にすると、それが必ず実現することになると、そうなんじゃないかなぁと思えるのです。
 ですから、途中の不完全に右往左往して、それを目で見ていると、損するのではないかなぁと。
でも、多くの人は、そんな事は仰いませんので、それに引きづられて、人類意識の苦悩に浮沈してしまいそうになりますけれど、
そうすると、目の力をあやまったほうに使って結局損する事になるのではと。

 今までは、人々の意見に耳を傾けていたのですが、せっかく真理を教えてもらえているので、真理の方が永遠に堅固だと、真理のほうを信じようと思っている所です。

 実現するかどうかという時系列的現象より、實相はいつもあるので、将来の実現を見つめるという意味ではなく、黙示録のハッピーエンドは、心理的な内容だったようなおぼろな記憶があります。


 その事も、水子さんたち實相妙楽宮地蔵の皆様にお伝えしますと、自らの幸運を悟って下さるかなぁと思います。




スポンサーサイト
2018.04.06 Fri l 日記 l コメント (0) トラックバック (0) l top
合掌 ありがとうございます

 最近は、すでに亡くなった人が、「いっしょに行こう」と誘ってくれる夢を度々見ます。少なくとも5回は見て、目が醒めてから、「あれ?あの人は、もうこの世の人で無かった」と気が付くのです。
 一緒に行っていたらどうなっていたんだろう…いつも一緒に行きかけて、今回は、水をこぼして拭き掃除をしているうちに目が醒めてしまいました。
 「人類光明化運動をしたいんでしょう?一緒にこう」と誘って下さるのでついて行こうとすると、道中の人が、「どこから来られましたか?」と尋ねて下さり、「あちらからです」と答えて、家を指さすと、実際には無い大きな實相額が架かっていました。
 夢から覚めた私は、人類光明化運動が出来なくなった現実をどう生きて行けばいいのかわからないまま、ただお聖経読誦の日々を送っています。ブログもどうしようか考えていたらまた夢で、ブログをどうしようかと御神籤を引いている夢を見ました。

 谷口雅春先生が、お聖経は、内容をよく理解して、感謝の気持ちでたんたんとあげなさいという事でしたので、そうしておりましたら、このお聖経に書いてある内容を信じるという事は、「愛されているので感謝」しないといけないという事なのだなぁと思うようになりました。
 普通では、実感的にそう思えない感覚で普通だと思われるのです。現代では、宇宙とは物質で空気も科学的成分で出来ている事になっていますので、愛といった精神的存在とは、かけはなれて無関係なものだとそういう感覚になるのは、通常の事であって普通だと思うのです。

 しかしながら、お聖経の訴えんとする事をそのままうけとめるとしましたら、宇宙と自分の関係は、虚無ではなく、愛されている関係であると、そう受け止めざるを得なくなってきました。
 ブレサリアンの方々が、宇宙に満ちている神の愛を呼吸しているのよ、それで生きているのよと、嬉しそうに仰っているのを羨ましく思っていましたが、本当にそうなのだと感じられるようになりました。食事をとっていても、食品でさえ神の愛なので、やはり神の愛に生かされているのでしょう。

 そして、愛されている事を「そんなはずはない」と思う事は、お聖経の内容を拒否している事になるのでしょう。
人とは、心だけのものだそうですから、それがすべてになるのでしょう。

 前回は、6人の子供を虐殺された場合でも、神の愛と感じて感謝するようにしないといけないと書かれてあると書かせて戴きましたが、あんまりの事なので、なかなかそう思おうと思ってもハードルが高いものだ、どうすれば、それが神の愛と思えて感謝出来るだろう?と考えておりましたら、それだけ人間の實相というものが偉大だからなのだと思うようになりました。
 6人殺されても、それを乗り越えていける力があるのが人間だとそう考えてみるようにしたら…?
6人殺される位の悲惨事も神の愛だという事ですと、この世は、ほぼ神の愛だらけという事になるように思えました。
悲惨この上ない事でも神の愛だという事でしたら、現象界にも神の愛が満ちている計算になりそうです。

 よく現象界だから不完全なのは仕方ないという事が言われますが、やっぱり完全なのだろうと思います。だから背後から照射する神の愛と完全に感謝するようにしなさいというのは、やはり正しいのだろうと思います。

 6人の子供を殺された方は、前世で、利己主義の生活をしていたからだという事が書かれてあるのですが、利己主義は、愛である宇宙と同調しないので、同調しないという事は、波長で出来ている宇宙では、あまりうまくいかないという現象があらわれるのではないかと思いました。

 人の尊厳とは、偉大な宇宙と等しく完全で立派で、愛であるという事なのだろうと、それ以外は、現象になるのだろうと。


 最近はずっと、大調和の神示とにらめっこして、天地一切のものに感謝しないとと工夫努力を続けていましたら、Youtubeでいじめられっ子の回想がよくあるのを見つけて、読んでいましたら、子供の頃の記憶が蘇って来ました。

 小学校6年生の時にいじめが原因?という噂で、転校してきた子が居て、いじめはいけない事だと思った私は、その子と一緒にいる事にして、自分から近づいて行って、一緒にいる事にしました。ずいぶんと美人の女の子でしたので、いつもなら避けていると思うのですが、一人にするのは、いじめに加担する事になるので、卑怯な事をしている事になると思って、勇気を出して会いに行ったのを憶えています。

中学に行ってもいじめられていて、本人が担任に言いに行ったら、クラス替えがあるまで待ってと言われたと言って憤慨していました。
家庭環境も良くなくて、大人からも避けられていたからか、円形脱毛症になっていて、ひどく驚いたのを憶えています。
どうにかしてあげるにも、返答にもいい言葉が思い浮かばないし、どうしてあげたらいいのか分からなかったのですが、運動神経も人一倍良い子で、活発で朗らかな性格で、小学校の卒業文集で好きな言葉を書くのに、「笑い」と書いていた位、よく笑う子でした。

 当時は、いじめ問題や、色々な現象で、不完全な中に生きていたような記憶ですが、今になって思うに、普通家庭環境がいまいちなら、ひねくれてみたり、暗くなったりしても不思議でないのに、明るく朗らかだったAちゃんは、素晴らしかったのだなぁと、私は助けに行ったつもりが、実は、自分が助けられていたのだったのかもしれないなぁと思いました。

それに気が付かなかった私は、随分と至らない友人だったなぁ、Aちゃんは、朗らかだったのに、私は本の虫のように気が利かなくて、Aちゃんの事をほめてあげる事もなかった。感謝が足りなかった。
あんな環境下でも、朗らかだったAちゃんは、實相があらわれていたのだと、いじめという不完全な中にあっても、實相があらわれていたのだ・・・

 あれから何十年たってから、Aちゃんのくったくのない明るい笑顔には、思い出すだけで助けらました。毎日見ていたら、当たり前のように思っていました。私も何か良い表情を与えられていただろうか?いつも神妙な顔つきをしていたような気がします。Aちゃんは、いじめられっ子だったけども、素晴らしい子だったのだなぁと、完全があったのだなぁと、私は毎日見ていても気が付かなかったです。
 今回、天地一切のものに感謝しようとして思い出せて、やはり神示は素晴らしいなぁと思いました。

 高校生になると、「あなたは、いじめそうな雰囲気を持っていない」と、元いじめられっ子だった子が寄ってきて、ずっと一緒にいる事になりました。
 その子は、ひどい手荒れに悩んでいて、授業で危険な薬品も触るのに、大丈夫なのだろうかと心配していたので、一人で苦しませているのを見ているだけなんて、忍びない、私に出来る事はと考えて、手を握ってあげたら、自分にもうつったのか、痛かったりかゆかったりする湿疹が指に出来たりして、皮膚科に行っても治らず大変でした。
 近年、外国で済むようになった友人にきくと、大人になったら治ったとの事で、ほっとしましたが、自分は治って居なくて、ひどい時は、手首からきりおとしたら楽になれるんじゃないかと考えた時もありました。
 昔は、生長の家の真理を知らなくて、痛みを分かち合うとか、身代わりになるとかしか、思い浮かばなかったのです。

 しかしこの度、お聖経漬けの日々を送るようになったからか、A地点からB地点へ移動さして解決するという方法ではなく、”消す”という方法があるという事が分かり、フィルムから消そうという事を実行しようとしていたところ、夢の中で、カメラの内部だけが激しく燃えている夢をみました。
 その前からだとは思うのですが、いつからか分からないまま、手荒れが消えていて、そう言えば、高校生の時から、「これさえ無ければ、しかし到底無くなりそうもない」と思っていたのに無くなっていると気が付きました。

 途中、ひどい症状の時に、「無い、無い、實相は完全だ」とか何とか念じて、数秒消した時があったのです。
ほんの一瞬でしたが、ひどいかぶれが消えて、指紋が見えました。本当に肉体は、念の影法師のようなもので、實相を念じたら症状は消えるのですが、念の動力に負けるのか、数秒しか持たなかったときがありました。
 そしてまた、「痛い、かゆい」とか念じてしまうのです。現象無しとして、實相に集中することが大事なのでしょうと思うのですが、症状があると中々そんな心境に到達できにくかったです。

 病気を共有する事が愛の道ではなく、”消せる”のですね。 完全な實相が顕れる、神の完全な愛が迫って来る、それが正しい信仰だったのでしょう。その事が今回分かりました。


 そのほかも、低くみられる職業の人々も如来の皆様なのだと分かる事があったり、天地一切のものに感謝するというのは、本当に素晴らしい事なのだなぁと思いました。




 メモ

 その他、自然保護団体が、外国に土地を買われない前に土地を買い取って下さる事を考えて下さっているという事を知りました。
函館方面の右側の広大な土地がもう既に買い取られているそうです。目的が分からないそうです。

 イギリスでは、自然保護団体の会員数が多くて、政治家がすぐ意見を聴いてくれるそうです。そうしないと次の選挙で落とされるからだそうです。

 日本でも、省庁に言いに行くと、「会員数は?」ときかれて、「一部の人だけの意見をきくわけにいきませんので」と断られるそうです。
会員数は大事なのですね。

 私が、「帝国憲法下では、外国に土地を売るのを禁止する法律があった」「帝国憲法に戻せと訴えている団体もある」ことをお伝えしましたら、「昔はあったのですか!そっちのほうが良い、そんな団体があるのですか!」と大喜びされていました。

 環境問題の人は、愛国者が常識と思っている知識が、行き渡っていないので、情報不足なのです。
 それと、現代日本人は、個人主義なので、会員になるのを嫌って個人で居るので、なんとも出来ないそうです。

政治上は、土地の法律を変えれない今では、買い取るのも良いかもと思いますが、「森」という名前がついていると、ちょっと心配になってしまいました。
 せめて情報位は、共有出来ればよいのに、情報も断絶しているのですね。 個人主義はやっぱりいけないのではないかなぁと思います。
2018.03.23 Fri l 日記 l コメント (0) トラックバック (0) l top
合掌 ありがとうございます

 前回の日記から、ずいぶんと日が経っていたのですね、今日は時間が出来ましたので、いざ更新せんと日記帳を読み直していましたら、その間ずっと感謝が出来るように奮闘していたようです。昨日になってようやくほぼ感謝が出来るようになり、心が清々しくなりました。
 それでもまだよく分からないままです。きっと忠臣的精神が抜けないので、現代的な生き方が全く出来ないのだろうと思います。恩が無い人ですと、何か気に入らない事があったら宗派を変えるが善とすぐ判断するのでしょうが、私の場合は、まず恩があり、恩返しのためにしていた事なので、そこで感覚がずれるのかなぁと思いつきました。ですから現象的事象で、ああだからこうだからと言われても、忠臣的な思考回路では、何かそぐわないものを感じて、君臣が逆なのがいけないという事で、帝国憲法支持の心のかけはし誌をとるとか、判断の基準がそこにあるのかといった、一見すると不思議な行動になるのだと思います。
 自分にその精神さえなかったなら、こんな苦労はしていないと、客観的に考えるとそう思います。和犬もそうらしいですから、日本人のDNAがそうさせるのか、それで行動をしばるのか?その点で身動きが取れない状態です。
忠犬ハチ公でも、自由にふるまえばいいのに、結局は、自由よりも、じっとしてしまうことを選んでいるではないですか。
日本人の習性で仕方がないのかも知れません。そう思ったら、ブラジルにも忠犬はいるそうです。
https://www.youtube.com/watch?v=uacJxa2-sTQ

 そんな私が出身地の事を言われたから大変です。一体どうしてそんな事が頻発したのか、不思議に思って考えるに、前回は、憲法を論ずるという事は、そういう歴史的展開が気になるものだから仕方がないので、そういう世界なのだろうか?と思った事を述べさせて戴きましたが、その後、潜在意識が実現するので、日本人同士でそういう感情は持っておかないに越したことないけれど、歴史上なり土地のあれこれは、言われると本当に辛いものがあるという事が分かり、直接的には光明化運動には関係ない事ですし、言う必要無い、言わない方が良いと思いました。そしてそういう感情を消すには、お聖経の力を借りたらよいのだと思い、お聖経の光明思念で印画紙の黒くなっている所を消して戴くようにしました。無実の罪を責められて辛いですけれども、うらみかえしても意味のない事です。言われっぱなしで仕方ないですが、谷口雅春先生は、家族でもひどいふるまいをするのがつらいなら、現象無しという事を悟っていない証拠という事ですので、現象無しと思う事にします。

 しかしどうしてそんな歴史的な世界観にひきずりこまれたのか、多分あまりに気の毒な事象の場合、相手の訴えも無理もないと、同情してしまって、言い分をのみそうになるので、ずっとその相手の感情にしばられるのかなぁと思いました。
 利尻島へ行った時も、会津藩士の碑があったと思います。当時の装備で越冬は可能だったのかどうか? 開拓村へ行った時は、民家の壁がむしろのようで、これで北海道の吹雪をどうやったら乗り越えられるのか分からなかったです。また、神風連の歴史は、ずいぶんと気の毒です。
明治維新は、歴史であり、真理では無いという事を今回の出身地騒動は教えてくれたのかなぁと思いました。
本当に救うのは、真理しかないように改めて思います。

一人一人が、神性開発をして、自己の神性性をあらわし、神らしく無限の許しを実行出来るようになるという事が、日本の實相顕現につながるのかなぁと思いました。

 とにかく許さなければいけない、何回でも無限に許さなければいけないという事ですから、自分は神であるので、無限に許せると言い聞かせて見ました。
 雅春先生によりますと、忍辱の修行と言って、おかしな事を言われても耐え忍び、いつか平気になれるまで、そうした事象が起こるとの事で、それは、誰にでもいつか起こって(?)、乗り越えないといけない事らしいです。

 まるで現象界では、「これが真実だ」とか「これが善だ」という事が吹聴されていましても、ふりかえってみるに、人の言葉のいい加減な事、神様の言の永遠金剛不壊な事を感じ、お聖経の内容に親しみ、理解を深めて行きますと、やっと顛倒妄想と申しますか、お聖経の訴えているところの逆転の発想に慣れてきて、肉体というものは無く、本当の自分とは、神の愛であるという考えに納得がいってきました。

 そうであると、もう愛に枯渇するという事は無いはずです。神想観でも、「神の無限の愛の海が流れいる」と念じているのであるから、枯渇するという事は無いはずであるのに、それが何故かうまくいかなかったのは、どうしてであったのだろう?とその理由をつらつらと考えました。
 想像しますに、おそらく、古い宗教では、愛とは執着という発想であったり、出家や、家族を捨てて愛着を絶って宗門に入るという事が大いなる決断であったからではないかなと思いついたのです。それが出来るか出来ないかが宗教者かどうかの分かれ目であった気がします。そういう記憶が残っていて、とても邪魔をしているように思いました。

 そういったお聖経の内容は、不食のジャスムヒーンさんの新刊の内容とソックリのように感じます。『「平和の道」と「本質」であること』255頁「本質がどこにでも漂っており、創造の基本構造であり、生命の基底の周波数」という所とお聖経の智慧「神は遍在する実質且つ創造主なるが故に」

256頁「本質にもっとも満たされた自分のヴァージョンになるということです」の所は、お聖経の「愛と平和と智慧と調和のみを満たせば~」

同じく256頁の「形を持たず、愛と叡智の意識の流れであるヴァージョンです」の所は、人間の項の「霊なる愛なる智慧なる人間は、物質になんら関わることなし」

257頁の「本質としての神が、私達に息を与えているのです。私達が同一化する視点を、自らの本質へとシフトする時に、すべての贈り物を享受することができます」の所は、同じく人間の項の「まことの人間は、霊なるが故に愛なるが故に智慧なるが故に生命なるが故に罪を犯す事能わず、病にかかる事能わず、死滅する事能わず」

同じく257頁の「私達は、本質を神のような力を持った存在として認識。私たち自身が本質の一部をなしているのであり、ある人は神と呼ぶ、純粋なI AMなのだ」というところは、「實相の世界に於いては、神と人とは一体なり」という内容に酷似しているように思います。

不食の人々の周囲の植物も、その平和の周波数に感化されて、不食になるらしいので、お聖経の内容が広まれば、本当に動物界の弱肉強食の世界は、聖書に予言されているような大神と羊が相戯れている状態に変化していきそうです。その事は真理の吟唱に書かれてあったと思います。そしてそれが、谷口雅春先生の目指されていた世界であったのでした。


 集団と和する為に、愛の心を抑えるのは、どうなのだろう?とそこが正確には分かりません。和すると言っても、犯罪に加担するような事にならないためには、愛の心は、いつでもどこでも大事なのだろうと、振り返って見るに思います。
 昔は、公に私事を持ち込まないという事で、家庭を顧みないで外で働くお父さんが普通でしたけれども、それは一体どうなのでしょう。
 私自身は、介護を十分に出来なかった事を今頃後悔しています。事情を話して、しばらく休暇を貰うようにするとか、上手な方法があったかもと思います。なんだかそこで道を誤った気がしています。


 ピコ太郎さんだって、新しい音源を試す事が趣味なほど電子音を愛して、その結果、音に関係する観音様の影響があるのか、音で救うと言う約束をされている住吉様と関係があるのか、金龍のような恰好をされて笑いで日本を助けたり、音でも何でも心から愛するという事は、周りをひきづって愛の周波数まで救うのかも知れません。

谷口雅春先生も、いかに愛したか、どれだけ愛したかという人生でいいとのことでしたので、音でも何でも愛するという事はとても良い事なのだと思います。

 今回のオリンピックでは、羽生結弦選手が快挙であったそうで、弓弦羽神社は、大賑わいであるそうです。
以前家族が、帰省した時に、近所の方にお聞きしますと、羽生結弦選手は、お母様ともお参りされているそうで、私はテレビをほとんど見ませんので、Youtubeで拝見させて戴きましたが、まるで神舞のような演技で、弓弦羽神社は、本住吉神社と同じ日のお祭りで、同じ地域の山車が弓弦羽神社にも本住吉神社にも巡ってお祭りしている位で、総本山のように、住吉神社の上に、伊邪那美大神様のお祀りされた御社がある位置関係になっており、この羽生結弦選手の演技は、伊邪那美大神様も住吉大神様もお助けになられたのではと思ってしまいました。

 住吉大神様も、舞いに関係する神様なのです。
https://www.youtube.com/watch?v=hi7RGDswPzU
今回の題名は、晴明SEIMEI―生命というのでしょう?

この一週間位は、よく伊邪那美大神様の事を思い出していました。古事記に関係していますと、伊邪那美大神様の事はとてもネックになり、印象が深くて、いつまでも気になってしまいます。ウンウンとうなされるようにまで考えて、實相には間違いは無いのだから、神話上では、失敗があったようになっているけれども、實相においては、伊邪那美大神様に起こった色々な事も無かったのではないかと。
 卍の向きで、左回転がいけなくて、右回転でないとと色々考えて居たけれども、結局は、實相には間違った事は一度も起こった事がないので、「あの時どうだったから、こうなった、三つの桃をなげねばならぬ」と焦る事も本来は無いし、三つ桃とは、實相を投げる事になっているので、相対的な相手をやっつける行為ではなさそうである、結局は、實相独在、神の愛の心しか存在しないという事ではないか、お聖経の内容こそが真実なのだろうから、と思っていました。

 そうでないと、いつまでも過去の失敗なり経緯なりにとらわれて、本当なら實相を観ないといけないはずが、過去をみつめつづけていることになっている気がしました。これからは、伊邪那美大神様の輝くお姿を心に描き続けるのが良いような気がしました。


 弓弦羽神社のたしか住所が、大調和の神示の数字になっていて、隣には、朝日新聞の美術館がありますが、どんどん良い方へ向かって行っているのだと良いですね。

 愛国者であらねばならない、愛国活動をせねばならない、九条改正で軍事力が居るのだという事で、愛国者の世界を覗いてみましたけれども、構造的に望みが果たせないようになっているのと、愛国者の意見は、よかれと思っていても、マイナスに働く世の中になっているような気がして、どうにかするのは、情報をひろめるほかないのではと思っていましたが、そんなことしている間に、いづのめの神の時代は、素晴らしい芸術的な活躍で、今回のオリンピックのように、国の危機をサラッと助けています。

 人間知では、思いも及ばない抜け道を神様は、何でもお見通しで、適切な魂を天下す事が出来るので、素晴らしい助けをして下さるのではないかと思いました。

 愛国者が、武器が欲しいと思っている間に、いづのめの時代は、火垂るの墓その他の映画を生み、それが外国人の胸を打っているようです。
 単に軍事力だけ手に入れていたのでは、本当に言われていた通りになって、逆につらい道を歩まないといけなかったかもしれないけれども、
神様は、適切な才能を持った魂を産み落として、日本だけでなく、世界中の神の子さんたちの成長をのぞんで、世界中をよりよい方向へ導こうとされているのではないかと思いました。

 日本が、そんなに芸術表現なり歴史的景観の豊かな国という事がYoutubeなどで広まらなければ、今回の北の騒動も、東洋人同士の争いとしかとらえてもらえず、もっと窮地であったかもしれません。
 本当にいづのめの神に助けて戴いたのではないかと思えてなりません。

 芸術じゃだめなんだ、武器がないと、それには憲法改正だという事を言われて、「そんなものかなぁ」と憲法のほうを調べてみましたが、先述のように構造的に難しく、これを突破できるのはやはり、神の智慧、いづのめの神の登場が一番の助け船になっていたのではないでしょうか。憲法改正したくても、外国人に、昔の敵国のイメージを払拭して戴くには、いづのめの神の登場がとても良かったように思います。

 さすが神様、そしてさすが神國です。八百万の神々の護る国です。

 拉致被害者の事が気になって、早く早くと焦っていましたが、構造的に簡単な事でなく、自分に出来る事は、とにかくお聖経の光明思念で、フィルムから黒い印象をとりのぞくようにするのがプラスになると思いました。
 そうして一人一人が、神の愛を生きていくという状態になり、そこに全てにおいて良い展開が期待できるのではないかと思いました。



海外「感動的な話だ!!」 羽生結弦は人柄まで素晴らしいと海外ネットで話題に
http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-2610.html
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/【平昌五輪】「興奮と感動の週末」安倍晋三首相、羽生結弦、小平奈緒の金メダル獲得を祝福/ar-BBJj3k4?li=BBfTvMA&ocid=spartanntp
https://www.msn.com/ja-jp/sports/news/羽生結弦、11168点の高得点%EF%BC%81「完璧な滑りで感動した」「王者すぎる」/ss-BBJchNc?ocid=spartanntp
羽生ゆかりの神社、参拝客20倍 韓国からのファンも2/19(月) 8:43配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180219-00000079-spnannex-ent
【海外の反応】衝撃!!平昌五輪!羽生結弦の宇野昌磨に対するある行動に日本人大好きと外国人絶賛!!【すごい日本】
https://www.youtube.com/watch?v=F8nG7vBfq9s


2018.02.23 Fri l 住吉様の面影 l コメント (0) トラックバック (0) l top
合掌 ありがとうございます

 お聖経を読誦し、天地一切に感謝できるように努力させて戴く日々を過ごしておりました。
最近ようやく天地一切に感謝できるようになりました。
その間、時々、以前にあった事を思い出して、どうしても感謝出来ないと、引き戻っておりましたが、感謝するより道は無いと思って、背水の陣で感謝するように心がけておりましたら、
やはり努力というものはするものなのか?努力のせいか、それともお聖経の功徳かわかりませんが、なんとか感謝にこぎつける事が出来るようになりました。

 一度でも感謝出来ますと、感謝の状態はこんな感じと分かるので、二度目からはその状態に近づける方法を選んで努力出来るので、まるで山道を登ってはころがりおちるの繰り返しのように感謝の努力を続けておりました。
 すっかり感謝が出来るようになっているのかは、まだ疑問です。今朝も朝起きた時に、「ああまだ自分は、すっかり感謝出来ていない、まだこらえているだけかもしれない」と感じながら目覚めました。

 神示には、「こらえているのでは和解出来ていない」というような事が書かれてあり、それは本当にそうだと思う今日この頃です。
祈りでも何でも、実現するのは、潜在意識なので、こらえていても、その内容が実現するので、こらえている事には、現象界では意味があっても、そういうものを持っているだけ損をしてしまいます。

 谷口雅春先生も、祈りというのはお願いする事でなしに、自分の想念の実現というような事を書かれていましたが、旧式の信仰では、祈りとは泣きつきのようなものであるような認識があり、それを中々克服出来ないでいました。
 しかしこのところ、なんでも潜在意識が実現して行っているのに気が付いて、こんなのほっとくのは危ないと思って、潜在意識の浄化をはかった訳です。

 潜在意識もそうですが、単なる思い込みも、ものすごくものを言うので、そんなものに振り回される人生になる位なら、聖典読誦を繰り返して、潜在意識を真理に置き換えておくに越したことないと思いました。
 今回、それが出来る機会に恵まれた事は、天の恵みと言うものなのかもしれないと、感謝しないといけません。

 色々今までの事をご説明させて戴きたい気がするのですが、現象一切なし過去も無しという事にして、ただ實相を観て感謝し続けますという事だけを記すほうがよいものでしょうか?
 何の説明も無ければ、何のことやらわからない日記になってしまいますが、以前あった事は、思い出したくもないほどの内容です。

 ほんの小さな断片だけお伝えしますと、例えばこのようなニュースで分かるように、
『会津の人々、長州に今も遺恨なぜ? 明治維新150年より「戊辰」』
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180207-00010004-nikkeisty-bus_all
憲法関係では歴史上の怨恨的感情にふりまわされるような事があり、まったく困ってしまっていました。
お国の為に尽くした故郷の偉人をけちょんけちょんに言われるのは辛い事ですが、人の感情としては許せないと思ってしまっても、それでは光明思想にはならないので、無限に許したり、感謝出来るようにならないとと奮闘しておりました。谷口雅春先生は、原爆にも感謝しなさい、原爆を落とした米兵の幸せも祈ってあげなさいという事でした。

 先祖代々の因果も、それは自分の意識の中にだけつかまれているので、潜在意識を浄化したさえ消えるという事を宇治で教えて戴いておりましたり、谷口雅春先生も、聖典を読むほどに、人類の潜在意識を浄化していっているという事ですので、それにはお聖経が良いに違いないと思って、お聖経の内容をよくよく理解出来るようにしながら読誦するようにしておりました。

 お聖経には、「最初の夢」これがすべての元凶なので、これを消せというような事が書かれてありますが、前後から推察するに、「最初の夢」とは、「不完全なものがあるという夢」であったり、「神以外のものがあるという夢」であるという事であるような気がします。

 普通に生きて居ましたら、通常では、この逆の発想で生きている事になりそうです。しかしそちらのほうが夢をみているような状況であるという事なのでしょう。
 例えば、罪でも、罪というものは、不完全なものだから、無いものなのだ、それは非存在で、神の光のほうだけが存在しているという発想でも、通常とは逆転の発想です。
 そういう風にして、一つ一つ錯覚を解いていきますうちに、許せない思いも溶けて行ったように思います。
 お聖経は、やはり凄いのではないでしょうか?


 最近では、肉体というものはある、という考えからも、遠ざかりつつあります。以前は、肉体という塊りがあるという考えから中々離れられませんでした。肉体というものは、本当に無いものなのだ、それは、心から吐き出す糸だと、お聖経に書かれてあるその通りだと感じます。良いか悪いか空中遊歩の神人というのも分かるような気がします。だから良い結果を得ているかというと、それは疑問ですが。今後気を付けて、實相をみつめれば、良い実がみのるものなのでしょう。

 今はまだ、何が善かが判然とせず、?????と思ってしまいます。 このままずっと分からないまま生きて行く事になるのかも知れないと半分諦めています。
 大熊先生が六根清浄の大祓を解説されていまして、それで初めて六根清浄の大祓の存在を知りましたが、六根清浄の大祓の内容は、本当にそうだと思う今日この頃です。
https://www.youtube.com/watch?v=OT6sl3hutCM
 それが分かっても、やっぱり自分は、何かこらえているものがあるような気がします。もっと心がけて實相を観て感謝する心にならないといけないと思いました。




 web上で見かけた過去世で会津藩士であった方は、今世では、オーラを見て相手の心に癒しの言葉をかけるお仕事をされていました。
 以前にも日記に書かせて戴きました通り、私の知人の整体の先生も、前々世位で、盗賊の頭領をして色々壊して回っていたけれど、今世では人々の体を治して回るお仕事につかれていたり、転生後は、以前とは、逆のお仕事に就く事が多そうな気がします。
 やはり生まれる前に決めてきたお仕事は、過去世の反動から勉強のためもあるし、やはり本人がこれをすると思うお仕事をするようになっているものである気がします。

 胎内記憶で有名な産科医の先生は、最近では、地球を救いたいという念願を持って生まれて来る子供が多いと動画で仰っておられました。
 使命以外の事をしても成果があがるのかどうか?
 私も霊的な人間ではいけないのか、肉体的でないといけないのか?と思って、霊的な自分であることを否定しましたが、自己否定すると、一気に体調を崩すのです。
 自己否定はいけないんじゃないのかなと思います。
 web上で読んだ情報によりますと、スピリチュアル的には、自己否定さすと、その子はトラブルメーカーになると言われているそうですが、それは、得意な事をせずに、苦手な事をさせる事になるので、必然的にそうなるのだろうなぁと思います。

 私も、いづのめの神の時代と思うなら、その時代の使命を果たしているほうが良かったような気がしています。
うつろな記憶ですが、いづのめの神の時代は、それまでの証明が出来るとか、そういう事もあったと思います。
ですから、こちらの日記で、谷口雅春先生の御教えは、やはり正しかったですよ、これが証拠ですというような、浅草寺関係の情報を掲載出来たりしたのではないかと思っています。

 谷口雅春先生の『母親と子供の本』に、物質的発展が目的でない、霊的な文明?が来る事を待ち望むというようなことが書かれてあり、私も霊性の進化という事を努力して生きて来ました。失敗ばかりしてきましたけれど、経験するというのは、失敗も経験の一つなので、仕方ないのかも知れません。いまふと思い出しましたが、『宇宙兄弟』に、失敗する回数を織り込み済みで計画を立てるというのがあり、とても感動した事です。

 宇治から送られてきました『宝蔵』に第三の文明をつくるというような事が書かれてあり、それは、谷口雅春先生の希望されていた霊的な進化の事なのかなぁ?と思いましたが、明確には分かりません。霊性の進化は、谷口雅春先生のお言葉を読むことによって可能なのではないのかなぁ?と思うので、『心のかけはし』誌の谷口雅春先生の原文を楽しみにして、十冊位知人に配ったりしていますが、それで良いという事も、自分ではハッキリとはわからないままです。

 自分では、やっぱりオリオン座の示す事が、けっこう当たっているような気がします。なぜなら、自分勝手に予想したものでなく、谷口雅春先生の神示集を読み解いて行って、そうした神示に忠実に沿って導かれるように出てきた結論だからです。

 例えば、古い掲示板で、数字の事を計算して、予測をしておりましたが、そのニ三点は、当たっていましたもの。勝手に計算したのではなく、神示で、357の数字で展開発展していくというような事が記されていますので、それをそのまま信じただけなのです。
 私が数字や計算に強いという事はなく、神示を本気で信じ込んでいたのです。それで、357で計算したら、当たって行ったのです。
 例えば、午年という事は、もしかして、憲法の事が表舞台に出て来るとか?と予想すれば、それまでは、憲法改正の事が表立って話題に出る事はなかったのが、その年をかわきりに、逆風に転じて行ったり、
その他の計算では、何か大きなものが壊れる年かも?だから原宿の建物が壊れるのは仕方ないかも?という時に、原宿の本部の建物が壊されたり、年数の計算上は、雅宜先生は、今の憲法にご縁があるお生まれになっている感じなので、本人のせいではなく、何か運命的な流れでそうなっているのでは?という事であったり、

 357の数字で計算すると、やはり生長の家の大神様の仰る通りになっている気がしてしまうのです。
今は、数字の計算などは、批判しか受けないので、もうすっかりやめてしまいました。
でも、落ち込んでいると、損なのだという事に気が付いて、神示では、天地一切に感謝しなさいと神様が仰っているので、その通りすべきだと、自分は今一人で、それよりほか生きて行く方法がないので、背水の陣で感謝だけの生活をして行こうと思っています。


 今日は、読み返す気力も無いので、推敲もせずにこのままアップさせて戴きます。
2018.02.09 Fri l 日記 l コメント (0) トラックバック (0) l top
合掌 ありがとうございます

 今朝は23年前の震災の時間に合わせてお聖経読誦が出来ました。
23年前に起こった事は、以前にこちらの日記に書かせて戴きました。

阪神淡路大震災と法華経についての日記
http://tingokokka.blog.fc2.com/blog-entry-77.html

毎年掲載させて戴きますのは、谷口雅春先生が、小さな体験談でもとても大事である事や、発表する事の大切さをお書き下さっているからです。
現代では、発表の場がインターネット以外では見つける事が出来なくなってきました。

以前は掲示板に書かせて戴きましたが、何かその内容について言われているのか?本流の先生から、「子供が遊園地へ行ってきたと嘘つくのと一緒だ!」ときつく言われた事があり、せっかく得られた体験をどうしてそんな事仰るのか分からず、しょっちゅう嘘つき扱いされるので、居場所が無くなってきました。

しかしこれは、とても重要な内容だと思うのです。なぜなら、通常は、肉体から霊体が抜け出て幽界を見て回るというような記録が多いのですが、これは、肉体の中に空間がひろがっていたというものなので、まさに生長の家で説く、法華経の内容は真実という説明のようなものだと思うからです。

 お聖経には、すごい功徳があるという事になっていますが、震災の時の天使まで、お聖経を読みなさいなどと、まさに地上だけの存在ではなく、天界でもお聖経が重要視されているという事が分かると思うのです。


 昨日の日記では、とにかくやみくもにでも誰にでも感謝するようにして苦戦していると書かせて戴きましたが、今日も全国流産児の子供達のために三部経を読誦させて戴いてますと、

これはお聖経読誦の時によく感じるのですが、波動があがっている状態になっているような感じで、實相界の感じと申しますか、實相の放送により近くなっているような感じがして、
非実在のものであるものが、暗くかすんで闇のような非実在的な印象に受け止められるのですが、

 ほぼ毎日読ませて戴いてましたら、その周波数に慣れてきて、それで固定されて幸福感の周波数帯で生きられているような気がしておりまして、

 そして今日は、『父母への愛を求めて』の中で楠本加美野先生が、お見合いを断りに行かれる場面で、親の声は神の声だが、自分も神の子だから、こんなに違和感があるのはおかしいと、判断されている部分の判断基準が、なんだかわかったような気持になれました。

 通常なら親の声は神の声という事で、指示に従わねばならないところを、なんだか自分勝手な気分一つで判断しなおすというのは、一体何を判断基準にしたらいいのかわからないなぁと昔は思っていたのですが、

きっと楠本先生は、お聖経を読みなれておられたのでしょう。そして私も及ばずながらもお聖経を毎日読誦させて戴いているうちに、お聖経の内容とかけはなれた事や、慣れない周波数に、非真理性を感じて、「これは間違っている」と分かられたのではないかしらと思いました。

ヘヴィメタル音楽がBGMでしたら、何が何だか判断に迷ってしまっても、お聖経の調子に慣れて居たら、違和感で分かるという事かも知れないと思いました。

 そこでやっと私は、偽物とは和解出来ないという事がどういうことなのか、分かれたような気がしました。
偽物をこれが本物なのだと自分に受け入れて居たら、例えば、虐待する事が正しいと教えられたとして、はいそうですか、と納得していたら大変なように、お聖経の説く道から外れていたら、それを正しい道としてはいけなかったのではと思いました。

 ですから、實相荘厳懺悔のように、完全なすがたを直視するほうが、かえって不完全が消え、罪が消えるという事になるのは、それはまったくストレートな事実のような気がします。

思った通りになり、思った事が実現して、思いが形になるので、偽物と和解するとしたら、偽物の奥にある完全な實相を直視して和解というのでしたら、とても整合性の取れた和解となると思います。

例えば、「虐待が正しい」と教えらえて、「それは受け入れられないが、和解するために感謝しないといけない」と私が苦悶したのは、偽物は無、その奥にある實相のほうに和解してなさいという事が分からず、現象の姿に感謝しようとしていたからなのかなぁと思いました。
「虐待が正しい」と言われても、それを受けいれるのは、心が反発してしまって、どうしても飲み込めない事です。


 それが今回お聖経を読んでいますと、そんなとんでもない状況は、非実在的なかすみの向こうにあるように感じて来ました。
明るい光明の世界のほうが事実であり、そんなとんでもない事が例え現実に起こったとしても、それは非実在な影のようなものなので、それを現実としたり、それと迎合したりしてはいけないのだと分かりました。

 地上に悲惨が起こっているように見えていても、それは非実在で、本当にあるのは、光明ばかりの明るい生命の世界であると、これからは、そのように世界観を転換して生きて行けそうな気がします。






2018.01.17 Wed l 日記 l コメント (0) トラックバック (0) l top